「あの曲」は「『ああ』の曲」 —柴田聡子『後悔』—

 好きなうた、ぐっとくるうたの基準は人によって違うだろうけれど、「この人は何を言い出すんだろう」と思わせるうたは、いいうただと思う。そして、柴田聡子のうたは、「何を言い出すんだろう」率がとても高い。
 たとえばいきなり「ああ、きた」とうたい出す。何がきたかと思ったら「あの曲がきた」とくる。なんじゃこりゃ?
 世の中にはDJが好きな曲をかけてくれるうたがたくさんあるけれど、柴田聡子の「後海」は何の説明もなく「ああ、きた」から始まるうた、ただ頭とからだにばんっ、と衝撃がきて、それが「あの曲」だったとわかるうただ。
 「ねえ、いま、きみも気づいた?」と、うたは続く。「気づいた?」は、単に曲が流れているのに気づいたかをたずねてるんじゃない。あの年、あの場所、あの人、わたしがきみに「あの」と指し示すとき、それは単に遠いできごとを指しているのではなく、わたしときみが共に思い出すことができること、「あの」と言っただけでどのことかわかる何かを指している。だからこれは「曲」に気づいたかだけでなく、それが「あの曲」だと気づいたかをたずねているうただ。あの曲がかかっているのはどこだろう。どうやら「みんなは気づいてないみたい」。どこかのクラブかもしれないし、語り手の頭の中のできごとかもしれない。でも、少なくとも、わたしときみは他の人が気づかないささやかな秘密の体験を共有していて、わたしときみだけがこの曲を「あの曲」だと気づくことができる。まるでデヴィッド・ボウイの「スターマン」で、DJのかけたごきげんな曲の中に、子どもだけがスターマンの声をききとるように。
 「あの曲が」の「あ」は「ああ」と伸ばされて「ああの曲」とうたわれる。まるで「ああ」と気づいた曲のことを「『ああ』の曲」と名付けるように。そう思ってもう一度最初からきくと、「ああ、きた」は「『ああ』、きた」、つまり、「『ああ』の曲がきた」を短く言い当てているようにもきこえる。こんなふうに、何を言い出すんだろう、と思わせるうたは、うたが通り過ぎたあとに、意味があとから追いかけてきて、でもうたはさらに先を走っている。うたが意味より速い。その速さが、ことばの疾走感になる。ほら、始まりのたった数行で「後海」はこんなにぐっとくる。
 柴田聡子のうたは短いものが多い。うたうべきことをうたいおわったらさっと終わる。そういうところもとてもいい。ギターがうまくて、弾き語る姿は目の前に何万人いてもへっちゃらそうな風格がある。
 わたしは柴田聡子がいつか武道館でうたう気がしている。彼女がうたい出すとそこには一万数千人のきみがいて、「あの曲」が始まったことがわかるのだ。

(初出:細馬宏通「うたうたうこえ」『GINZA』 2018.9 )


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