トットの抜け道 第二回(2016.6)

アニメーション映画『窓際のトットちゃん』は、鉄道、改札、車両、本、そして泰明ちゃんを軸とした、よい映画だった。それを見て、『トットてれび』の「さあさあ出発だ」という声のことを想い出したので、以前書いた以下の文章を再掲します。


トットの抜け道 第二回

 テレビは鏡だ。  といっても、「テレビは社会を映す鏡である」といった話をしたいのではない。テレビは、文字通り「鏡」なのだ。

 昭和33年の大晦日、中華飯店にテレビが来る。画面の中の紅白歌合戦は白黒だけれど、そこに赤いネオンが映り込んでいる。ほら、鏡だ。ちょうど店の外を眺める向田邦子の顔の前にネオンが映り込むことで、わたしたちはガラス窓越しに彼女を見ているのだと知るように、画面の前にこちら側の世界が映り込むことで、わたしたちはそれがテレビなのだと知る。テレビは、見られる者だけでなく、見る者を映し出す。

 働き過ぎで入院してしまったトットちゃんは、病室で一人、自分の出ていた番組を見る。番組は、自分がいなくても何ごともなかったかのように進んでいる。渥美清演じる喫茶店のマスターが、トットちゃんの不在を問われて「実家に帰ってます」と言う。  「実家に帰ってます、のひとことで片付けられちゃうって、なんなんだろう?」テレビを消すと、テレビを見ていたトットちゃん自身の姿が画面に映り込む。テレビがついているとき、そこに映り込むこちらの姿は、意識から逃れるほど淡い。でも、テレビを消すと、テレビは見事な鏡になる。ひとりぼっちのトットちゃんがテレビに映っている。トットひとり。

 さて、第二回の展開には、かなり驚かされた。なにしろ、冒頭で「トットちゃんには、テレビジョンを教えてくれた、たいせつなおともだちがいました」というナレーションがあったきり、番組が半分進むまで、そのおともだちのことは放ったらかしなのだ。

 見ているこちらも、もうこの最初の謎めいたナレーションなどすっかり忘れた頃、つまり、トットちゃんがスイッチの切れたテレビに映った自分を見つめていたとき、トットちゃんの「おともだち」は不意に現れる。

 トットちゃんとおともだちの泰明ちゃんは、木に登ろうとしている。泰明ちゃんは足がわるくて、はしごで木に登るのも大冒険だった。「トットちゃん、むりだよ」「大丈夫、あたしがついてるから」。夏の日差しを思わせるその美しい場面で、ゆったりと、ある旋律が流れている。あ、これは、「ヤン坊ニン坊トン坊」の挿入歌、「さあさあ出発ださあさあお別れだ」のメロディだ。そして、ふいに遠くからピアニカの音がして、ようやく二人は木の股に登り終える。ピアニカの音はゆっくりふくらんで蝉しぐれになる。このマジックのような音は、「音遊びの会」と大友さんの演奏。

 と思ったら、場面はふいにテレビのスタジオに移り、トットちゃんは『夢であいましょう』の撮影に入っている。「今日のテーマは、テレビジョン!」というE.  H. エリックの声をきいたトットちゃんは、ふと「ね、どうしてテレビジョンっていうのかしら?」と渥美清にたずねる。すると、撮影中のE. H.  エリックが「遠くを見る、という意味です」

 「あら、この話、いつかきいたことあるわ」。そこからトットちゃんは、ふいに新人の頃、NHKで講義を受けたことを思い出す。それはアメリカから日本にテレビを伝えにきたテッド・アレグレッティーという人の話だった。実は『トット・チャンネル』によれば、黒柳徹子はこのアレグレッティーの文章を資料として読んでいるのだけれど、ドラマの中では、トットちゃんは直に彼の話を目撃していることになっている。

 吾々の文化が、向上するか、堕落するか、正しい人類向上の道をたどるか、或は、その進歩の道をはずれるかは、テレビジョンに、かかっている、ということが出来よう。かくて、世界各国の国民は、テレビジョンの力により、お互いに自分の姿を、さらけ出すようになり、世界各地の慣行習俗も、イマームまでの孤立の殻を破って、お互いの眼の前に現れてくる。かくて、今まで人類が夢想だに出来なかった国際間の、より大いなる理解と永遠の平和の可能性が生まれてくる。これがテレビジョンの力なのである。

(『トットチャンネル』より)

 ミスター・アレグレッティーがテレビジョンの夢を語っていると、ふいに蝉の声がする。

 アレグレッティーの講演よりもずっと前、木の上の泰明ちゃんが言う。「あのね、アメリカにはテレビジョンっていう四角い箱みたいなものがあって、それが日本にきたら、家にいてもおすもうが見られるんだって」。画面が切り替わり、ほんとうかうそかわからない泰明ちゃんのことばを戯画化するように、力士がのしのしと部屋に入ってきて、「テレビジョン」と朱書きした段ボール箱に入ろうとする。

 通常のドラマなら、この力士のショットを、ちょっとしたギャグとして扱い終えるだろう。ところが、井上剛の演出は、このなんでもない場面こそを、離陸地点と定める。力士の足がばりばりと箱を破るそのとき、大友良英のギターのカッティングが鳴り、泰明ちゃんがまぶしそうに夏空を見上げ、ミスター・アレグレッティは通訳に「ミスター・カトウ、スモウ・タイム!」と呼びかけ、いきなり相撲を取り出す。傍らのブラウン管には相撲が映る。そしてテレビは鏡だ。テレビを見る会場の人びとが拍手するそのさまが、相撲の画面に二重に映し出される。

 おすもうと音楽で時空を越え、テレビジョンが見る者と見られる者を同時に映し出す。この信じられないシークエンスで、わたしはもうすっかり「トットてれび」のとりこになってしまった。

 気がつくと、場面は再び木の上で、泰明ちゃんとトットちゃんは夏空を見上げている。不思議なことに、二人のいる木の下には、大人になったトットちゃんがいる。泰明ちゃんはもういない。テレビジョンが始まるずっと前に、遠くへ行ってしまったから。「そしていま、四角い箱の中で、トットちゃんは生きている」。

 ふいに木琴が鳴り、「上を向いて歩こう」の、あの聞き慣れたイントロが始まる。坂本九が歌い出す。『夢であいましょう』の一場面だ。舞台が明るくなり、錦戸亮演じる九ちゃんの周りに子供たちがわあっと風船を持って九ちゃんの周りに集まってくる。でも、トットちゃんはどこにいるのだろう。

 そのときカメラは、セットの奥、木の形に切り抜かれた板のかげをほんの少しとらえている。そこから、ひらひらとモスグリーンのスカートがはみ出している。あ、トットちゃんはあそこにいる。きっと、あの日の夏の木陰からやってきたのだ。

(2016.6)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?