藤沢さんの背中 —『夜明けのすべて』のある場面について—

 『夜明けのすべて』(三宅唱監督)の冒頭、観客はベンチに座るずぶぬれの背中を見る。背中は次第に自身を支えられなくなり、ついには横たわってしまう。その姿と重なるように「PMS」という病気について物語っているのは、背中の持ち主の声だろう。観客はこうして、藤沢美紗(上白石萌音)の身体に現れる変化を「PMS」として目撃し、以後、その兆候に鋭敏になろうとする。

 とはいえ、わたしたちは、動き続ける時計の針をじっと見つめるように兆候を虎視眈々と待ち望んでいるわけではない。スクリーンの上ではいくつものできごとが同時に起こっており、わたしたちはその中から、能動的に注意の対象を選び取る。リュミエールの「工場の出口」を何度観ても見飽きない理由の一つは、見るたびに、新たな注意の対象が見つかり、今まで気にも留めていなかった誰かの振るまいが見つかり、そのたびに映画が新しくなるからだ。そしてわたしたちは、見つけるだけでなく、見逃す。左右に分かれて出ていく労働者たちの振るまいに見とれ、横切る犬に見とれ、奥から現れつつある二頭立ての馬に見とれるうちに、誰かが工場に入っていくのを見逃し、誰かと誰かがさりげなく手をつなぐのを見逃し、腕組みするのを見逃す。

 次々とスクリーンの上で起こるできごとに注意を移していくとき、わたしたちの気づきは、いつもできごとに遅れている。わたしたちが気づいたときには、ことはすでに起こり始めており、起こり始めたことに、わたしたちは注意を惹かれる。何かに気づくということは、自分がそのできごとに遅れたことに気づくということでもある。

 『夜明けのすべて』で、観客が、藤沢さんの体に表れる兆候にスクリーン上にいる誰よりも早く気づく(と思わされる)瞬間がある。それは、栗田科学での年末大掃除の一シーンだ。朝、工場の前庭で社長(光石研)が挨拶し、社員たちが持ち場に散っていく。誰もが何の問題もなく散開していくそのシーンで、藤沢さんが工場に入っていくとき、わたしたちは、その背中に表れている兆候にふいに気づく。そして、そこにいる誰もが見逃していることに気づいてしまったと感じる。

 なぜわたしたちは、藤沢さんの身体の表す兆候に気づいてしまえるのだろうか?

 もっともはっきりした理由は、直前のシーンにあるだろう。藤沢さんの同僚である山添(松村北斗)は、クリニックの医師に、ふと、PMSってどういうものなんですかね、と質問し、何冊か本を借り出す。直後のシーンで、わたしたちがPMSの兆候に注意深くなるのは、ごく自然なことだ。

 一方で、これらのシーンには、わたしたちを油断させる気分も同時に走っている。それは、この映画でもひときわ楽しい場面、藤沢さんが山添の髪を切るやりとりの名残りだ。山添の自宅を訪れた藤沢さんは、山添が自分で散髪をしようとしているのを知り、部屋に押し入るようにして、山添を座らせ、神妙に髪を切る。しかし、最初にハサミを入れたところで、もう明らかに、切りすぎており、山添はあまりのひどさに転げ回って笑う。
 クリニックのシーンの冒頭で、医師が「最近変わったことはありましたか?」という医師の質問に、髪が短くなってしまった山添は「いや、特にないですね」とそらとぼける。さらに、社員たちが散開するとき、一人の同僚が山添に「髪切った?」と声をかける。わたしたちは山添と藤沢さんのほがらかな時間の名残りの中に居て、藤沢さんの背中を見る。だから、藤沢さんの異変に気づいた瞬間、自分がうかつにも直前の藤沢さんの明るいやりとりに囚われていたこと、微かにその異変に遅れたことにも、同時に気づく。
 
 わたしたちが、藤沢さんの背中に遅れて気づくもう一つの理由は、他の社員の動きだろう。社長が挨拶をしているあいだ、藤沢さんはこちらに背中を向け、画面の奥にいて、さらに手前にも社員たちがいる。聞き終わった社員たちは、それぞれのペースで散開していくため、観客の注意はどの動きに注目するとも決めかねてさまよう。藤沢さんの動きは、その中で少し遅れるのだが、そもそも、人々が動き出さねば、遅れているかどうかすらわからない。

 そして、遅れるのは藤沢さんだけではない。画面の手前では、山添が、藤沢さんに声でもかけようとしたのか、少し近づきかけて、足取りが停滞する。さらにもう一人の社員が、服のチャックを上げるのに手間取っている。この社員は、ようやくチャックを上げると、先に述べたように、山添に近づき「髪切った?」と声をかけ、山添と連れだって持ち場に移動する。わたしたちが、異変に気づくのは、二人が去り、藤沢さんが結果的に、一人残されたように遅れて入口に入るときだ。

 カメラは、社長の訓示から藤沢さんが入口に入るまでを、あたかも「工場の出口」ならぬ「工場の入口」のように、特定の誰かをクローズアップすることもなく、固定で撮影し続ける。スクリーンの中で、人々は極めて自律的に工場に入っていき、誰も誰かを取り残そうとはしていない。その動きからはぐれるように藤沢さんの背中がぽつんと現れるとき、わたしたちはようやく兆候に気づく。そして、まるで自分が藤沢さんの背中を能動的に選び取ったように感じたのち、じつはこの見事なワンショットが、『工場の出口』がそうであったように、社員たちのさりげない動きによって演出されていることにも、遅れて気づくのだ。

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