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高貴なやつめうなぎの場合

 この覚え書きを書くにあたっては、あまり人の論を見ないようにしているのだが(すぐに影響を受けてしまうので)、それでも岡室美奈子さんに見せてもらった未発表の論考(ベケットとドライブ・マイ・カーが交錯する実にスリリングな内容→発表されました)は読んでしまい、これはもう影響を受けざるをえなくなってしまった。その一端はすでに「ヤマガ」に書いたが、次は「やつめうなぎ」を書こうかなと思っていたところで、岡室さんの論考で引かれている木下千花の「やつめうなぎ的思考」を読んだら、すばらしくおもしろく(とりわけ、音がなぜ横たわるのではなく体を縦にして物語るかという着眼!)もうこちらをみんなが読めばいいじゃないかという気になりかけた。

 なりかけたが、せっかくだから、「いいえ、まだ終わってはいません」などと、高槻の不遜な口調をなぞって、少しじたばたしてみよう。映画に対することばが短期間のうちに飛び交い、互いに参照し合い、あちこちに分岐してしまうことも、この映画らしいできごとだから。

 やつめうなぎは、その愛らしい見かけに反して獰猛な生きものだ。とりわけグロテスクなのは(悠介が見ている動画に映し出されている通り)その口である。吸盤状の口の内部には歯があり、他の魚に取りつくと、内側にある歯でその肉を囓って生きている。木下が的確に指摘している通り、「やつめうなぎとは、一見するとペニスに似ていながら、その実、ヴァギナ・デンタタ(歯の生えた女性器)であるという、類い希なる生物なのである」。

 ペニスにとりつき垂直に身構える身体としてのおとを考えるならば、やつめうなぎの生活様式はまさに音そのものである、ということになる。しかし、ここで少しばかり車線を変更してみよう。というのも、音は、ただの「やつめうなぎ」ではなく「高貴な、、、やつめうなぎ」について語っているからだ。

 この話のもととなっている村上春樹の『シェエラザード』では、やつめうなぎは語り手自身の前世として語られる。しかし、映画版ではいくつか見逃せない変更が行われている。まず、やつめうなぎは、語り手の前世ではなく、女子高生の前世として語られる(とは言うものの、語り手は語ることによって次第に女子高生に憑依していくようなのだが)。そしてそこで語られるのは高貴な、、、、という特別なやつめうなぎである。音の語りによれば、高貴なやつめうなぎは、他のやつめうなぎのように魚に寄生するのではない。石に口をくっつけて何も食べずにゆらゆらしている。そして、何も食べない生活をするうちに、死んでしまう。つまり、肝心のヴァギナ・デンタタ性は、高貴なやつめうなぎにおいては機能しておらず、その口はただ付着するだけのために用いられるのである。

 高貴なやつめうなぎである女子高生は、ヤマガのベッドの上で、オナニーを始める。音の語りの中で、女子高生は(音は)、高貴なやつめうなぎが何も食べないのと同じように、ペニスに取りつくこともなく、ただ初恋の相手のベッドに付着し、エクスタシーに達しようとしている。しかし一方で、語っている音の身体は悠介の身体にまたがりながら、語りのエクスタシーに我が身を重ねようとしている。悠介は、その音の姿を正視するのがいたたまれなくなったかのように、腕で眼を覆う。

 悠介はなぜ眼を覆ってしまったのか。ここで顕わになっているのは、音のことばにおけるペニスの不在と、音の身体にとってのペニスの存在、という分裂である。悠介は、自分のペニスが音に対して身体的には機能していながら、音の語りの中ではなきものとして扱われ、にもかかわらず、音のことばと身体がもろともにエクスタシーに達しようとしているのを見るのが耐えられなかったのかもしれない。少なくとも、音のことばの極みで発せられる「扉が…開く!」は、かつて帰宅した悠介が扉を開いて、、、、、目撃した音の情事を喚起させ、悠介を狂おしく苛んだことだろう。

 しかし、それは単に耐えがたいことに過ぎなかっただろうか。もしそうなら、悠介は彼女の声を繰り返しきくことなどできなかったはずだ。音のいなくなった後も、悠介は音のテープを繰り返しかけ、音の「零度の」声をきく。悠介は明らかに、音の声に、自身の痛みを抱えていくための何かを見出している。ことばと身体の矛盾を、矛盾とは違う別のやり方でとらえるために、音の声をきくドライブ。

 ビートルズの「ドライブ・マイ・カー」は、女性が男性に、ベイビー、わたし(の車)を運転しない?と挑発する歌だった。わたしを運転しない? そうしたら愛しちゃうかも。クラクションが鳴り歓声が上がる。映画はどうだろう。

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