下書き

 あるところに1人の男がいた。男は事務用品を卸売る会社の品質管理部門に勤めていたが、5年ほどたって営業職に異動することになった。
 希望の異動ではなかったが、男は遮二無二に働き、得意先のいくつかを1人で任されるようになったころ女と出会った。
 女は得意先のひとつであるA社で受付をしていた。目立った美人というわけではない。しかし、どこか儚げでミステリアスなその女に男は次第に惹かれていった。
 女への恋心を抑えきれなくなった男は、仕事の過程で懇意になったA社の社員にそれとなく女のことを聞いてみた。すると、残念なことにどうやら女には恋人がいるらしいことを聞かされた。しかも、相手は売れないバンドマンで、人柄も決して良くはないらしい。よく言えば夢追い人、悪く言えばフリーターのヒモなのだという。
 男は自分の方が絶対に女を幸せに出来るのに、と歯痒く思いながらも得意先の会社で略奪愛に手を出すほど馬鹿ではなかった。
 しばらく悶々と複雑な思いを抱えながら仕事に精を出していたが、ある日男の元に朗報が訪れる。女が例のバンドマンととうとう別れたらしいというだ。
 こんなチャンスは2度と来ない。男は訪問予定もないのにA社を尋ね、挨拶もそこそこに女を食事に誘った。
 それから何度かのデートを重ね、男と女の交際がスタートした。
 夢のような毎日、しかし男にはひとつ不可解で気がかりなことがあった。初めに受けた印象通り、いやむしろそれ以上に女がミステリアスかつ大人しげな顔に似合わない破天荒さを隠し持っていたのだ。
 約束をすっぽかす程度ならまだ可愛い方で、デート中にふらっといなくなって1人で映画を見に行ったり、何週間も連絡がつかなくなったりすることもあった。初めは困惑したが、そうして女に振り回される生活も男にとっては新鮮で、存外悪い物でもないと女を詰問するようなことはせず放任していた。
 ある日のこと、男は女に誘われて小さなロックライブに出掛けた。ひとしきり音楽を楽しんだのち、2人で夕食を食べ、2人の足は自然とホテル街へと向かっていた。
 適当なラブホテルにチェックインし、可もなく不可もない部屋に入った。男が先にシャワーを浴び、一向に入ってこない女に首を傾げつつベッドルームへ戻ると、女は忽然と姿を消していた。
 ホテルから姿を消すのは初めてで男は面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、女がここにいない理由に思考を巡らせた。
 部屋の会計は後払い形式であり、扉横に備え付けられた端末を見ると部屋代は未払いであり、入室時間は男が部屋に入ったときの時間が表示されている。どこかに隠れているのかと部屋中を探すが陰も形もない。窓はあっても人1人が通れるほどは開かない上、とても飛び降りれる高さではなかった。コンビニに買い出しにでも行ったのかとフロントへ確認の電話をしても、途中退室の連絡は来ていないという。
 男は女が帰ってくる可能性を考えしばらくその場で虚しく待ってみたが女は戻らず連絡もつかない。3時間ほど待って、男は1人でホテルを後にした。
 後日、女と連絡がついた。男がホテルでのことを問いただすと、女は「ホテルになんか行ってない」とふざけたことを口にした。
 それから数週間後、突然女からメールで別れを告げられた。A社も退職したようで、もう女と連絡をとるすべもなく、男は狐に摘まれたような気持ちで途方に暮れた。
 

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