スマホと個人主義について
みなさん、こんにちわ
いっくんです。
最近、自分がスマホ依存の手前まで行ってしまっているなと感じた(GWは1日14時間携帯を見ていた(笑))ので
通勤時間などを意識的に読書をするようにしています。
すると最近、電車内で多くの人がスマホを使い、ゲームやメッセージに夢中になっている姿が奇異に思えてきました。
自分は物心のついた時から携帯と一緒でしたが、
携帯が誕生したのは自分が生まれる少し前だと知った時は、とても驚いたのを覚えています。
携帯なしに、待ち合わせをするだとか連絡とをするとか恋愛をするだなんて想像ができず、ずっと前から
存在していたと思っていたからです。
人々のスマホへの依存度は今後ますます増えていくのでしょう。
https://mmdlabo.jp/investigation/detail_1817.html
それは便利だし、仕事・生活との結びつきが増す増す高まっているからです。
しかし度を越して使いすぎれば、
人間がスマホを使っているのか、スマホが人間を使っているのか
どちらなのかわからなくなります。
特に昨今は音楽を聴きながらゲームをして且つ歩いている人がいて、とても恐ろしいと感じています。
誰かとぶつかってしまうという可能性や、仮にぶつからないにしても音漏れや周りの音に気がつかず
他人に迷惑をかけてしまう可能性があるとは考えないのでしょうか。
「個人」主義が進展した結果、仕方がないことなのでしょうか。
人が社会的な生き物である以上、社会との関わりは欠かせません。
“個人”とは近代に特有な1つの概念を表しています。
それは、仕事・土地に制限された中世の人間には当てはまりません。
ルネサンス以降、資本主義の歴史と個人主義の歴史は同時展開的に進みました。
ロックが自然権を提唱し、私有財産の考え方が広まるにつれ個人主義の動きはさらに進んだように思えます。
しかし、留意しておきたいのは個人という言葉には、対となる社会の存在が前提となっております。
生があるからこそ死がある。
衰退があるからこそ成長があるのと同じように。
話を戻しまして、私が言いたいのは個人主義が間違った方向に行ってしまうのではないかという懸念です。
つまり、自分さえ良ければ周り(社会)はどうでもいいや。
と各人がやりたい放題の方向に進んでしまうと言うことです。
そうならないために、人には本来共感能力が備わっているはずです。
自分がしている行動で周りがどう感じるのか。
それは考えた上での行動が各人に求められている気がします。
携帯の画面をモノクロにしたり、スリープモードにするなどして、最近は1日1時間〜4時間まで携帯を見る時間を節約できました。
浮いた時間で読書や筋トレなどより生産的な時間を過ごせています。
これだけスマホとの繋がりが深まった時代、満員電車での光景にこうも考え込んでしまう自分が異常なのでしょうか。
“正気かどうかは統計上の問題ではない”
ジョージ・オーウェルの言葉を信じて、強く生きていきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!!
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