2月23日(日)→2月24日(月)

奇数よりも偶数の方が好きだ。
別にそれでいいんじゃないかと思う。


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昨日は20時には寝てしまっていて、今朝は5時ごろに目が覚めたのだけれど、はじめてぼくはぼくが朝が嫌いなことに気付いた。
夜遅くまで起きているよりも朝早く起きた方が生きる都合が付きやすいよ、っていうアドバイスはよくもらうし、知識として頭にはあるのだけれど、何年も前から染み付いたその言葉の通りに生きることができなかったのは、そっか。そういうわけか。

朝よりも夜が好き。
こうやって文字にしてみると少し違う気がする。
いや、文字通りに夜が好きで朝は嫌いというか苦手なのだけれど、夜更かしした末の朝は好きだ。起きて訪れる朝には感じないけれど、眠らずに訪れた朝は夜の延長線上にある気がするから。
朝よりも夜が好き。この言葉に違和感を感じたのはぼくが嫌いといった朝がこの”朝”のことじゃない気がするからだ。いや当てはまってはいるのだろうけれど。
枠が大きすぎるのかな。”朝”で表せられるものが多すぎる。
ぼくが今日起きて感じたのは絶望に近くて希望からは遠い感覚だった。
同じ暗さでも、日の出前の朝は1日の始まりだし、日付が変わっただけの夜は昨日の延長で、決して明日じゃない。昨日変われなかった憂鬱を、今朝は感じてしまうけれど、今日変われなかった憂鬱を、今夜は感じないで済む。だから夜の方が好きだ。
それになんだかどうも、朝はうるさい。
昼に生きる人間の気配を感じ取りたくないのに、家族を筆頭に、その気配が濃すぎる。わずらわしい。言葉は何もないのに、否定されている気がする。
別に”今夜”も”今朝”も、感じるものが気配であることには変わりないのだろうけれど、今夜に感じるものは今日のために起きているヒトの気配で、今朝に感じるものが今日のために起きたヒトの気配だ。後者のほうがずっと煩わしい。なんだかおおきな希望に溢れている。終わりじゃなくて始まりだからなのだと思う。希望なんて持たない方が楽なのに、希望がないことは悲しいことだと思ってしまう。未来なんて今のままだとなにも望むものにならないのに、その予測から目を逸らせなくなってしまう。
だからどうもこれはただの現実逃避だ。うそだ。何が現実逃避だ。今見ている方が現実だ、と、思う。
予定は見るけれど、明日は直視しないように生きている。
それが現実逃避だろうか。
そのくせ、過去はいつまでも引きずっている。
理想にそぐわない未来は見ようとしないくせに、理想通りじゃなかった過去を悔やんでばかりいる。……べつにいいや、だからなんだっていうのだろう。また自己陶酔だ。

今日変われなかった明日はぼくはもっとぼくが嫌いだろうし、今日変われた明日は希望が溢れ過ぎてしんどい。嫌いも希望もなにも身の丈にあっていない。

疲れたから今日はここまででいい。

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