Art of Hosting_1

研究とか、進んでるイベントとか、一回全部脇に置いといて

Art of Hosting 2019@長柄

3泊4日、参加してまいりました。

AoHって何

何それ?って聞かれても、AoHについてうまく説明できない。

「自然」に例えるなら。
自然っていろんな捉え方ができて、
山、森、海みたいなスケールの大きいものもあるし
街路樹、葉っぱ、虫、空気みたいなスケールの小さなものから、一見自然とは違うように見えるものもある。

AoHもよく似ている。
組織の持続可能性を追求するためのもの、優しい世界をつくるためのもの、って感じでスケール大きくも言えるし、
対話の仕方について考える、他者を受け入れる、みたいにスケールを小さく表現することもできる。

だから、AoHって何?って聞かれたときにどういうスケール感で答えたらいいかわからなくてうまく説明できない。
あくまで個人の見解ですがね。

そうなんだーくらいで頭にいれといてください。


何をしたかというと

レクチャーで教えてもらったり、
・自分が自分らしく在るためにどうすればいいか
・描くということについて
・ワークショップの種類と形式、使い方について (その他たくさん)

プラクティス(実践)したり、

ウクレレ弾かせてもらったり

気にかけてもらったりした。

私がびっくりしたこと、参加してよかったと思うことは

いろんな年齢層の人たちが、日本全国からきている

当たり前のように絵と文字を描いてグラフィックをしている

自分の経験を共有して、その延長で何かに自然と気付くことができる

感じたことや教わったことをいろんなこととつなげて考えることができる

人としての核の話をめんどくさがらず真摯に向き合い考えてくれる

そんなすてきな人たちばかりであったこと。


レクチャーをはじめとする、AoHで行われる話の中では抽象的な言葉がよく使われる傾向にある。

「言葉にうまくできないことってあるよね」

これはみんなの共通認識だ。

大学院の研究室に持って帰ったら
「そんなの元あったところに捨ててきなさい!」って言われそうだ。

うまく言葉にできないことをお互い認識したうえでコミュニケーションをとろうが、実は話がかみ合ってない可能性はもちろんある。
でも抽象的でふわっとした表現でも案外伝わるし、両者が実感を持ちながら話ができるということに実践を通して気付いた。

今まで言葉に対して過保護になりすぎていたのかもしれない。

研究やる分には過保護すぎるくらいで良いんだろうけど、過保護とは違うチャンネルを持っててもいいんだなって思った。


AoHで色々やったけど優しい世界を作るにはどうしたらいいか、って話が大きな軸として存在していたと感じる。

参加してる人たちの詳しいことは全然わからないけど、優しい世界を作るために考える(考えたい)人達の集まりであることは間違いなくて。

参加者の人たちは、今まで何か悲しい経験をしてきた人たちか、何か大きな守りたいものがある人が多い気がした。ただなんとなく。


AoHを振り返った時にまず思い浮かぶのは、人。

特に、私とお話してくれたお姉さま・お兄さま方がいたことがとても強く印象に残っている。

普段、今回お世話になったお姉さま・お兄さまくらいの歳の人にあんまり会わないだけに、とても新鮮だった。近くにいるだけで安心感。

年上の兄弟姉妹がいる人ってこんな気持ちで育ってきたのかな。うらやましい。


頼れる人っているけど、いない。


頼り方を間違えると自分の負荷にも社会からの評価の低下にもつながると思ってるから、なんにせよ「きっちりやらなきゃ」という意識が私はとても強い。


頼れる人がたくさんいるはずの今の拠点でも同じことを感じている。


今私が拠点としている場所はあくまでホームではなく、修行の場であると思っている。

ギラギラした人、尖った人、おもしろい人がたくさんいる。
そんな人たち;競争相手の動向って常に意識しておかないと時流の変化に追いつけないし、置いて行かれる。

今のところ、自分の考えを持ちながら時流の変化に一生懸命ついていき、次を予測するのが現状の私の修行内容である。と思って毎日過ごしている。

AoHは私にとって、修行のことはいったん忘れて自分・自分のやっていることに向き合う時間だった。


肩書のない自己紹介。

私の修行の場ではおおむね肩書、発せられる言葉と論理性・独創性で人間が判断されることが多い。
実際、大学生は(レベルが低すぎて)終わってるって言われたりしたこともある。

でもAoHでは「どこに住んでいて、普段どんなことをしている人なのか」
それを伝えるだけの自己紹介が当たり前の世界。

まず「その場所に存在している」「グラフィックを行う」といった役割がみんなそれぞれあるから、肩書なんて正直あまり意味がなかったのだった。

目の前には、肩書よりももっと大事なものばかりだった。
等身大に向き合うってこういうことなのかな。

私自身もどう映るかを気にしなくてもよかったから気楽だった。

実践したこと、思ったこと、新鮮なことや人や物が多かった。
こうして自分が非日常にいたことがわかっただけでも行った意味があると思う。
そういう世界がある、ということを知った。

居心地の良い空間だったなあ。
みんな仲良くて、何か考え事をしているかもしれないけど、安心している感じがした。


なんか自分いろんなものに影響されてるね。
自分の軸は結局なんなのかわからないまんまな気がするけど、こうやっていろんなことに影響されて楽しむ人生もまた美しいってことで良いのかもしれない。

とか良さげなこと言って。らしくねえ。

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