ブルシットジョブから学びたい4

今、価値観が多様化しつつあるのならそこには希望があると思う。何か一つの大きな力に頼ることや、これだけやってれば大丈夫なんてことはもうないだろう。一人一人の人間が日々暮らしから仕事から感じてるささやかやことにこそよりよい社会をつくるヒントがある。ちいさな気づきやアクションから少しずつ変わっていく。

 それは楽しくもあり、とても面倒だ。こういう状況は力を集中させたい人たちからすると不都合なんだろう

分断というような言葉を見かけるのも受け取り方を変えたら多様化してると言い換えられないだろうか。

“これは別にグレーバーだけが言っていることではないんですね。「ネオリベラリズムは経済学じゃない。マーケットを利用した政治だ」というのは、最近のネオリベラリズム研究のだいたいのコンセンサスになりつつあります。

なぜかといえば2008年の金融恐慌のとき、銀行などの不良金融業を、政府が膨大な税金を使って救済したんです。ネオリベラリズムの論理からすれば、救済しないですよね? 失敗は自己責任ですから。それをしなかった。

そのときに「ネオリベラリズムは、イデオロギーとしては1回終わった」と言われているんです。言ってることとやってることが違いますから。

でもなぜか蘇って、いまもしぶとく生きている。だからいまのネオリベラリズムって「ゾンビ的段階」って呼ばれてるんです。

つまりネオリベラリズムは、働く人たちには「自己責任だ。負けたらお前自身の責任だ」、あるいは中小企業には「戦えないものは去れ」と言っておきながら、いざ自分の存在が危なくなったら、政府からガンガンお金をもらって生き延びたわけです。それに対する正当化って、ほとんどないんですよ。あるとしたら「大きすぎて、影響力が強すぎるからつぶせない」とかそういう理由でしかないんです。

だけどそれ、「じゃあ中小企業とか無数の貧困者はいいのか」って話じゃないですか。ほとんど言い訳になってない。だから「1回終わった」と言われてるんです。”


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