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私と監督と恩人のはなし

 映画が終わり、出演リストに知り合いの名前を見つけたとき、思わず泣きそうになった。
 公開中の『私のはなし 部落のはなし』に、兵庫県加古川市にある屠場(食肉センター)の元理事長の中尾政国(まさくに)さんが登場していた。撮影されたのは、15年も前である。というのも…。
 監督の満若勇咲(みつわか・ゆうさく)君に、私が初めてあったのは2007年。大阪芸術大学映像学科の3回生で、まだ少年の面影を残す20歳だった。私は43歳だったので、当時も今も君付けである。
 彼は屠場を撮影すべく何カ所も打診したが、すべて断られたという。部落差別と職業差別が、大学生のカメラを拒んでいた。
 以前に取材したことがある中尾さんに連絡をとり、満若君と一緒に会いに行った。企画を説明すると、即断でオッケーが出た。満若君は、拍子抜けした顔をしていた。
「最近、若い人も捨てたもんやないと思うようになったんや。こないして肉のことを勉強したい言う子がおるのは嬉しいことやん。もっと我々もオープンにして、いろいろ見てもらうようにせんとあかんと思うんや」
 当時55歳の中尾さんはそう言い、自らも満若君のインタビューに応じた。2008年に完成した『にくのひと』は各地で上映され、その後、一般公開されることになった。

 ところが地元の運動団体が、作品に屠場の住所や賤称語が出てくるため問題視したのをきっかけに雲行きが怪しくなり、上映断念に追い込まれた。満若君は、大学卒業後は上京し、映像関係の仕事に就く。
「これから東京に行きます」
 引っ越しの日に、わざわざ電話をくれたのを昨日のことのように思い出す。東京―大阪と住む場所は離れたが、その後も彼との関係は続いた。彼はテレビ番組や映画のスタッフとして着実に実績を重ねた。番組の最後に彼の名前を見つけては、ああ活躍してんねやなあと安心したのだった。
 映像にかかわる仕事を続けながら、いつかは自作を制作する機会をうかがっていた。私が年賀状に毎年のように<次の作品を期待してます>と書き続けたことも頭の中にあったという。最近、彼から直接聞いたはなしである。
「もっと撮影技術を磨いて、いつかは自分の作品をつくりたいんです」
 7、8年前、私にそう語ったことがあった。
「もうじゅうぶん技術はあると思うで。そろそろ自分の撮りたいものにとりかかったらどう?」
 そう返したおぼえがある。実は満若君の就職先を紹介したのは私なのだが、先方の彼に対する信頼と評価は ” 特上 ” だった。だからこそ私は「そろそろ」と背中を押したのである。

『私のはなし 部落のはなし』の取材を始めたのは、いくつかの偶然があったという。
『にくのひと』の撮影で、全面的な協力を惜しまなかった中尾さんが、2016年に64歳で病没した。映像カメラマンになるきっかけを作ってくれた恩人に、もう新しい作品を見せることができなくなった。それだけに、心に期すものがあったようだ。
 同じ年に、全国の被差別部落の地名や住所などを記したデータの書籍化とウェブサイトへの掲載をめぐる裁判が始まる。満若君は、被告となった実行者への取材にとりかかった。『にくのひと』で、屠場の住所を明記したため、問題になったことを思い返したという。
 もう一度、部落問題と向き合いたい――。そう考え、人に会いに行ったり、関連書籍を読んだりして、新しい映画づくりを模索した。ここ数年は年に何度か会う機会があり、その都度、進捗情況を話してくれた。
 相談を受けることもあった。詳しくは書けないが、映画では重要な役割を果たす、ある人物を紹介したりもした。
「3時間半の映画になりそうです」
 編集作業がほぼ終わった段階で、そう言われたときは驚いた。いい作品なら問題はないが、つまらなかったら目も当てられないではないか。

 今年に入り、編集をほぼ終えたブルーレイ・ディスク(BD)が送られてきた。私は映画パンフレットの寄稿候補者のひとりだった。さっそく見る。感想をショートメールで送った。
<全編を拝見。うーん、傑作だね。無駄なシーンが、ない。映画として、面白い。それだけ。感服>
 あとは公開を待つだけとなった5月初旬に、満若ファミリーと中尾さんの墓参りに行った。満若君は、2018年に映像制作会社のディレクターと結婚した。東京でおこなわれた披露宴では、私も拙い祝辞を述べている。https://kadookanobuhiko.tumblr.com/post/172028337324/%E7%88%B6%E8%A6%AA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A7%81
 結婚して間もなく、ふたりに子供が授かった。名付け親になってほしいと言われ、10前後の候補リストの中から、響きと見た目が美しいものを選んだ。
 生後間もなく、子連れで大阪の拙宅に来てくれたことがあった。私が抱くと、ワンワン泣くではないか。名付け親の面目丸つぶれである。
 中尾さんの墓参りの日に、満若ファミリーと最寄り駅で待ち合わせた。私が近づくと、少し大きくなった息子が、すぐに手をつないできた。名づけ親として認められたような気がした。お連れ合いの腹部がふくらんでいる。ファミリーが増えるのだ。
 私たちは、仏前と墓前で手を合わせた。満若君、いや満若監督は、新しい家族ができたことと、ようやく自分の映画が完成したことを恩人に報告したかったのだろう。
 迎え入れてくれた中尾さんのお連れ合いと娘さんは、初めて会う家族(+名付け親)を歓迎し、映画の完成を心から喜んでくれた。

 『私のはなし 部落のはなし』の公開直後に、大阪市内の映画館に見に行った。試作品をBDで見たとはいえ、やはり映画はそれにふさわしい場所で鑑賞するに限る。
「手順を踏んでいるので、撮影のハードルは高くはなかったけど、編集は死ぬほど大変でした」
 上映後の舞台あいさつで、満若監督はそう語った。神経を研ぎ澄ませて構成を考え、編集作業を経たのが、スクリーンを通してわかった。若き日の挫折とその後の省察と研鑽が、作品に深みをあたえていた。
 被差別体験、部落民の自覚、共同体のイメージ、ネットでの暴露と悪罵、当事者の不安と懊悩、差別との闘い方…。インタビューもあれば、グループでの自由な討議もある。研究者による的確な解説が、わかりにくい問題を整理してくれている。
 差別する者・それに抗う者、忘れたい思い出・忘れがたい思い出、罵詈雑言・ポエム…。美醜が並存している。鍋物がグツグツと煮え、チョークが黒板をコツコツと打つ音が心地よい。要所で、控えめで美しい音楽が、胸に迫ってくる。
 映画が終わると「この映画に出演したすべての方に感謝をささげます」という文章のあと、出演リストが映し出された。部落問題をめぐる裁判の原告も被告も同じ扱いで登場する。そして、BDにはなかった「中尾政国」の名前が…。

 パンフレットの拙文の最後に、私は次のように書いた。
<一時は夢を砕かれた満若監督が、長い時間をかけて築いた人脈と蓄積した知識、それらを映像に落とし込む技術と感性がなければ完成しなかった、一級のドキュメンタリー作品である>
 満若監督は、同じパンフの「ディレクターズ・ノート」の最後をこう結んでいる。
<この映画は「部落」についての映画ではありますが、僕が出会った人々との縁の記録でもあるのです。この作品を作ることで、僕はようやくドキュメンタリー制作のスタート地点に立てたような気がします>
 作品のタイトルの主語は、多くの登場人物でもあり、監督自身でもあったのだ。<2022・5・26>





 

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