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水平社バトンのゆくえ

 1922年3月3日に結成された被差別部落民の運動団体・全国水平社が、このたび100周年を迎えた。さまざまなメディアで紹介されたので、視聴された方もおられたことだろう。
 部落で生まれ育ち、この問題をテーマにして書いている私も、創立100年を機に新聞のインタビューを受けたり、テレビ番組に出演したりした。まるで”水平社藝人”ではないか。水平社創立に関してメディアは手離しで礼賛し、その片棒を担いでいるのが他ならぬ私なのだが、実は複雑な心境だ。

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 部落差別は、時間が経てば自然になくなるわけではない。当事者自らが立ち上がり、声を上げない限りなくならない。そう決心し、組織を設立した意義は大いにある。
 ただ、部落解放運動は、なくなったはずのエタ・非人という存在を忌避しながら、それを認めたうえで差別に反対するという矛盾をはらんでいた。差別に反対すればするほど、部落民の存在は薄まるどころか、明確になっていった。
 とはいえ、もう黙ってへんで! みんな、団結しようや! という呼びかけは、全面的に正しい、と私は考える。
 意気盛んな若者たちが結集した全国水平社だが、創立メンバーは定着しなかった。もともと思想も信条もばらばらで、共通点は血縁的に旧賤民につながるという一点だけである。「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まる水平社宣言の作成にかかわった西光万吉や平野小剣は、後に組織を離れている。
 加えてこのふたりは、後年は国家主義に傾倒し、アジア・太平洋戦争の遂行を積極的に推奨した。水平社の綱領には「吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向かって突進す」と高らかに謳っているが、「人類最高の完成」の橋頭保が、アジア侵略なのだろうか。他の水平社のメンバーも、挙国一致体制に協力し、1942年に組織は消滅した。

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 この二面性、光と影があるから、私は水平社創立100年を素直に寿ぐ気にはなれない。「水平社万歳!」と叫ぶのに躊躇する。
 水平社に共感と違和感をおぼえる私だが、彼らが起こした運動は、いろんな意味で私とつながっている。
 水平社が創立された翌年に、私のふるさと・兵庫県加古川市別府(べふ)町(当時は加古郡別府村)で、ある事件が起こった。
 3月3日放送のNHK・Eテレ『バリバラ』でも少し紹介されたが、番組でカットされたシーンを含めて、あらためて水平社が残したものを振り返っておきたい。
 1923年8月26日夜。村内でおこなわれた映画会で、若い村民ふたりが会話していた。うちわを貸したAが「どうだ、そのうちわは立派なものだろう」と自慢した。借りたBが「なにこんなもの、新平民でも持っているよ」と返した。
「新平民」は旧賤民を指す。その言葉自体があってはならないし、文脈自体も差別的である。そばで聞いていたわがムラ・北別府(きたべふ)の水平社同人(メンバー)が抗議したが、周囲はBを逃がしてしまう。
 水平社同人は北別府に帰って他の同人に報告した。全国水平社の創立大会に参加した人物もいた。謝罪状を出させることで衆議一致し、Bの自宅に向かうが、追い返されてしまう。差別発言・行動に対して謝罪状を要求するのは、水平社の常套手段だった。

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 その数か月前にも差別発言があったが(その詳しい内容は記録に残っていない)、北別府側が矛を収めた。ふたたびの問題発言に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
 翌日、北別府の同人たちは話し合った。「このまま辛抱したら、余計にエタと言われる」「事が大きくなったら、余計にエタと言われる」。ふだんからこの言葉を投げつけられていたことが推察される。
 やはり謝罪状を要求することで衆議一致し、県内はもとより他府県の水平社同人の応援が駆け付けるに至って、事態は本村 vs. 北別府・水平社の様相を呈する。
 問題発言から2日後。本村側の「首がちぎれても謝罪状は出さぬ」との回答を受け、水平社側200人は、形ある謝意を求めて本村へ向かう。待ち受けた警官隊と衝突し、警官3人が負傷した。
 翌日、県内から応援を得た警官240人が北別府を取り囲み、闘争本部があった浄土真宗寺院・教照寺を急襲し、52人を逮捕する。当時50戸余りだけだった北別府だけでも20人が起訴され、有罪判決(騒擾罪・公務執行妨害)を受けている。うち2人は、私の祖父である。問題発言をした側の罪は問われなかった。
 この別府村事件は、以後わがムラで語られることはなかった。その意味で権力の弾圧は、功を奏したといえる。闘いが伝えられるようになったのは、事件から半世紀後の70年代以降である。

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 事件があった加古川で、1月中旬にNHK『バリバラ』のスタッフとロケを敢行した。
「じゃあ、角岡さん、事件のあらましをカメラに向かってしゃべってもらえますか?」
 撮影スタッフが私に指示する。えっ、レポーターみたいにしゃべるの? 聞いてないよー。
 遠い目で事件の概要を説明するが、しどろもどろである。再度撮り直したが、けっきょく放送では使われていなかった。
 撮影は、闘争本部が置かれた教照寺や、70年代に建立された顕彰碑の前などでおこなわれ、住職や地元の古老らに私が話を聞いた。撮影は丸1日かけておこなわれたが、放送されたのは4分だけだった。
 後日、このVTRを出演者とともにスタジオで見て、私が補足したのだが、これも放送では丸々カットされていた。スタッフによると、内容ではなく、30分番組という時間の問題だという。カットされた私の補足は、以下の3点である。
 抗議の声を上げ、検挙された人の中には、北別府に隣接する地域の人が少なくとも3人いた。怒りを共にする仲間が、部落外にもいた意味は大きい。
 問題発言をした人の子息が北別府に住み、市の同和教育推進委員を務め、部落差別を反対する側になった(番組でインタビューさせてらうべく連絡をとったが、昨年に亡くなられていた)。残念な出来事を掘り起こしていがみあうのではなく、地域の歴史を知ったうえで、どのような未来を切り開いていくかは重要。この問題は、日本とアジアの関係と同じである。
 VTRではカットされていたが、地元の古老・前田さんと顕彰碑を今後どうするかでやりとりをした。御影石製で、高さ1㍍、重さ数㌧もある碑には「人の世に熱あれ 人間に光あれ」の文字が刻まれている。水平社宣言にある最後の文章である。
 この碑には、事件のあらまし、有罪判決を受けた20人の名前が刻印されている。これは北別府が被差別部落であることを示す証(あかし)でもある。

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 以下はカットされた、前田さんとの会話である。
 角岡 これ(顕彰碑)、いつまで残しますん?
 前田 まあそれは、われわれが考える問題ではないな。次の世代がどう判断するかや。われわれは残してほしいという気持ちは強いけども…。
 角岡 最後は、僕が守りますわ。
 思わず私が、そう言ってしまった。ふるさとを離れて四半世紀が経つというのに。
 すぐに「何を守るか、わからへんけど」とすぐ自分でツッコミを入れ、前田さんと笑い合った。
 100年前に水平社から始まった部落解放運動は、さまざまな禍根を残しつつも、自らのルーツを自覚し、いかに生きるかという指針を与えてくれた。渡された水平社バトンを放り投げるのか、受け継いで次世代に渡すのか。
 放送では、顕彰碑に刻印された有罪判決を受けた20人の名前がしっかりと映っていた。放送前にNHKのスタッフから「事件を報じた昔の新聞記事を映してるんですけど『北別府』という地名も入ってます。処理してわからないようにすることもできますが、どうしますか?」という相談があった。
 部落問題がメディアで取り上げられるとき、地名や人名を出さないのが昨今の風潮である。どこが部落か、誰が部落民かを告知することになってしまい、それがインターネットなどで転載される恐れがあるからだ。
「そのままいきましょう」と私は言った。隠さないという覚悟が、水平社の精神ではないか。だからこそ北別府の住職や古老は番組に出演し、語ってくれたのだ。
 この私もまた、全国およびふるさとの水平社同人から受け継いだバトンを、確かに受け取っているのである。さて、次はだれに渡そうか。

                                                                                                 (2022・3・16)
 

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