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第7回角岡伸彦ノンフィクション賞 発表&選評

  取材と執筆は、短い時間で仕上げられれば、それにこしたことはない。だが、短時間でこなしたものが、いい作品であるとは限らない。もっと時間をかければ、深みのあるルポになっていたのになあ。そう思わせるものが少なくない。
『芝浦屠場千夜一夜』(山脇史子、青月社、2023年)は、ケタはずれに時間をかけた1冊である。ライターの著者は、ペンをナイフに持ち替え、1991年から長期間にわたり、牛や豚を解体する東京・品川にある芝浦屠場とじょうで働いた。
 <最初は一週間だけのつもりだった。それが、七年間にもなったのは、芝浦が類まれな、抜け出せないほどの魅力があったからだ>
 そう記しているが、7日間と7年間では大違いだ。長期間の体験が本になるまで、4半世紀も待たなければならなかった。職業差別や部落問題がつきまとう屠場を活字にするには、それだけハードルが高かったのである。
「そんな昔のことを今書いて出すことに意味があるとは思えないよ。あえて意味を見出すとしたら、あなたの物語にすることですよ。あなたぐるみでなければ、読み手には伝わらないよ。世の中に自分を離れて客観的事実なんてないんだから。世の中は自分込みの世界なんだから。全部書いちゃえよ」
 同業者のライターにそう言われ、腹をくくる。なぜ、著者が屠場と関係が深い部落問題に関心を持ったのか? 作中の中ほどでようやく語られる。本書は屠場で働く職人たちの優れたルポであり、著者自身の差別に対する葛藤を描いた自叙伝でもある。
 取材でどんな人物にめぐりあえるかは、ノンフィクション作品の質を左右する。「ケンカとバクチが好きで、手の付けられない乱暴者で、かつ最大のリーダー」と同僚に言わしめ、著者に何かと世話を焼き、技術を伝えようとした、伊沢真澄の魅力が際立っている。
「こいつはおれの若いころにそっくりだ。どこへでもひとりで行く。おれも人を頼んだりしなかった」
「あんたは誰が見ても屠場の人間だよ。どこに行っても大丈夫だ」
 大将・伊沢にそう評された著者の行動力と適応力もまた、特筆に値する。
<何年も通っているうちに自分の立場を忘れた。レポートを書くことよりも、そこの仕事をそこの人がやっているやり方でできるようになりたいと思うようになっていた>
 もはや観察者、表現者ではなく、技を極める職人ではないか。
 取材がすぐに文章にならなかったのは、差別問題がからむハードルに加え、<筆力も不足していた>と本人は書いている。それが謙遜なのか、時間の経過が功を奏したのかは判断しかねるが、おそらく前者であろう。
<私は門から中に入っていく時、透明な被膜をくぐるような、柔らかな膜を押しながら水の中に入っていくような感じがしていた>
 屠場があたかも一つの生命体であるかのように表現された美しい文章。その生命体に集う職人たちの日常が活写されている。
 屠場に出入りする内臓業者の三代目が、フィリピンに遊びに行ったまま帰ってこない。売買の権利を失わないため、代わりに妻が職場に顔を出すが、仕事をするでもなく、何日も作業場の隅に立ち続けている。そのうち、三代目が帰ってきて、妻はお役御免となる。
「ここはそういうところなんですよ。突然いなくなって、でもいつのまにか戻ってくる」
 さまざまな人生が交差する ” 解放区 ” の情景が、目に浮かんでくる。
「差別なんかなんにも無いっていうやつが芝浦にもいるよ。そういうこというやつは、自分たちの仲間うちとしか付き合ってないんだもん。差別なんか無くってあたりまえだよ。
 差別を感じるのは、他の仕事の人たちとか、違う場所の人とかと付き合う時だよね。あと違う職場の人と結婚しようとした時とか。だから境界にいる人たちはなんだかんだ感じるだろうな。まだ結構あるんだよ。いろいろとね」
 見えない壁について語る伊沢の言葉が印象的だ。
 舗道の上で見つけたカマキリと、屠場で働くことに反対していた父親の生と死が、同じ章で描かれている。若い頃、部落問題について話を聞きにいった司馬遼太郎とのやりとりもあれば、京都の小さな屠場に出かけた話もある。部位ごとに異なる形と味わいを持つ内臓・ホルモンのように、時間と空間を自由に行き来する各章が、ふしぎなハーモニーを奏でている。巧みな構成である。
<私が死んだら私と一緒に消えていくもの、誰も代わりに語ってくれないものを書き残しておきたい>
  確かにこれは著者にしか書けない、執念の1冊である。

 新聞記者は基本的に、取材したことをなるべく早く書かなければならない。毎日発行されるので、短期勝負なのである。
 2021年5月、大阪市内の公立小学校の校長・久保敬が、ずさんなコロナ対策を進めようとする松井一郎大阪市長(当時)に、提言書を送付した。まわりまわってSNSで話題になり、朝日新聞の宮崎亮記者が記事にする。
 ピンと来るものがあったのだろう。継続して取材すると、久保は児童に慕われる教師で、教え子の一人に、かまいたちの濱家隆一がいることがわかった。記者は濱家を含めた教え子たちに会いに行く。
 朝日新聞大阪版の連載に加筆してまとめたのが『僕の好きな先生』(宮崎亮、朝日新聞出版、2023年)である。

 私は連載時から愛読し、切り抜きもしていた。時期を逃さず一人の教師や教え子たちを追う瞬発力と粘着力には、敬意を表する。すぐに取材し、書くことも重要なのである。もっとも記者の能力と、それが発揮される記事の内容があってこその話ではあるのだが‥‥。
 取材対象に恵まれることの重要性は前にも述べたが、校長の久保もさることながら、教え子たちも粒揃いである。
 家庭環境が複雑だった濱家は、やんちゃな少年だった。全児童の前で教師から暴行を受けたり、家庭訪問で担任から「まあ片親やから、ぐれるのしゃあないですわ」と暴言をはかれたりしている。
 5、6年の2年間は、久保が担任した。児童ひとりひとりをよく見て長所を伸ばす久保は、自分が間違った指導をしたと思ったときは、子どもたちに素直に謝った。濱家は、久保が書いた計80通もの学級通信を今でも大切に保管しているという。忘れられない、稀有な教師であった。
 濱家の結婚式に新郎側の代表のひとりとして、久保がスピーチしている。千鳥の大悟、吉本興業副社長に続いて、久保がマイクの前に立った。
<「スピーチは『ほんの短くていいんです』と言われたんで、たくさんの中の一人かと思って、ちゃんと準備しなかった。後悔しました(笑)」
 だが、そこは長年教壇に立ち続けてきた久保だ。アドリブで濱家の小学校時代を振り返った。
 まず、母親に「やればできる子です」と言い続けたところ、あるとき「いつやるんですか」と問い詰められたというエピソードで笑いを誘った。
 そして濱家さんが卒業文集でこう書いていたことを披露した。
「漫才師でめっちゃめちゃ売れてる」
 立派な結婚式に呼んでもらったことにお礼を言い、こう付け加えた。
「みんなが名前を知る漫才師になった。『やるときはやる』と僕が言ったんを、いま、彼が証明していると思います」>
 久保もまた「やるときはやる」教師なのである。
 そんな久保だが、新人時代は挫折の連続だった。教師1年目に、5年生を担当した。チャイムが鳴っても運動場で遊んでいる。教室を歩き回り、着席しない。あいさつができない。いまでいう学級崩壊である。
「なめられてたまるか!」
 肩に力が入れば入るほど、子どもたちは離れていった。
 当時の学級通信に、久保が書いている。「(通信の)名まえをぼ集しましたが、およせいただけませんでした」。仕方なく学級通信のタイトルを自分で考え、『いちばん星』とつけた。こういったディテールがいい。
 5月の連休明けに発熱が続き、2日間休養する。辞職も頭をよぎったが、病み明けに子どもたちに会うと「先生、熱下ったんか。よかったな」「大丈夫か、無理しなや」と声をかけられ、肩の力が抜ける。
 校区に被差別部落があった。部落の子どもらと接することで、地域や家庭の事情にも目を向けるようになる。反差別運動や解放教育が培ってきた成果についても、きちんと触れている。
 むかしはワルだったムラの教え子が、居酒屋を開いているらしい。情報を聞きつけた記者と久保が、彼に会いに行く。果たしてそのワルは、どんな人間になっていたのか…。
 久保がクラスのひとりひとりと向き合おうとしたように、記者は久保を通して教え子たちの人生をていねいに描いている。
 新聞連載に加えて、コロナ禍での大阪市長への提言内容、そして久保へのロングインタビューが収録されている。
 ――松井前市長は久保さんの提言書に対して「(社会の)現場がわかってない」「子どもたちはすごいスピード感で競争する社会の中で生き抜いていかなければならない」と言ってました。
 競争社会はわかる。でもその社会を作ってるの、誰なんって。政治家なんて最も責任感じなあかん人たちです。「生き抜く」ハードルを低くして、その上でがんばれというならわかりますけど……。「落ちこぼれる奴は自己責任や」っていう考えが言葉の裏に隠れていると思うんですよね。
 いまの社会をそのままほっとくのは無責任やと思います。競争して生き抜くことだけを教えられた子どもたちって、不幸やなと思うんです。どこまで行っても安心できないじゃないですか」
 教師だから、社会がわからないわけではない。むしろ子どもや親を通して、もっとも社会と接しているのが教師なのだ。本書は良質の教師・教育論、そして日本社会論でもある。
 松井一郎前大阪市長は、さまざまな禍根を残したが、数少ない成果のひとつは、久保校長と宮崎記者を会わせてくれたことである。〈2024・3・31〉 



第6回作品の選評は以下
https://note.com/kadooka/n/nfec92ba3b7df

ノンフィクション賞創設の経緯と受賞作
https://note.com/kadooka/n/ne27bdfa0a133


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