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釜山の浦島太郎

   長期刑を終え、娑婆しゃばに出たら何もかもが変わっていた――。そんな気分だった。
 2月下旬の4日間を韓国・釜山プサンで過ごした。初めての釜山訪問は1988年で、2回目は94年である。その間は、特に大きな変化はなかった。それからの ” 刑期 ” が長かった。今回は実に30年ぶりである。
 街のあちこちに超高層住宅が林立し、その変わりように目を見張った。そのほとんどが50階建て以上で、ペンシルビル状の細長い建物が、つくしのようにニョキニョキと群生している。
「プサンは地震が少ないですからね。100階を超えるマンションもありますよ」
 日本語が流暢な70歳を超えたタクシー運転手が教えてくれた。空に向かって伸びるビル群は、韓国の発展を象徴しているかのようである。
 あちこちにあった喫茶店(茶房=タバン)は見当たらず、おしゃれなカフェに変わっている。かつてタバンで飲んだコーヒーは、たいがいインスタントだったと記憶するが、現在は本格的なエスプレッソまで楽しめるようになった。
 40年近く前に関釜フェリーから降り立った港町は、心細くなるほどさびれていたものだった。今やその近辺には、近代的なフェリーターミナルがどっしりと構え、オペラハウスさえ建築中である。
 釜山港へ帰ったはいいが、私はまるで浦島太郎になった気分だった。玉手箱の蓋をあけるまでもなく、私はすでに老体だ。

釜山市内に林立する高層マンション


 貧しい一家が、裕福な家族に取り込み、寄生していく様を描いた韓国映画『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督、2019年)は、匂いがひとつのモチーフだった。
 半地下に住む貧しい一家は、全員が素性を偽り、運転手、家政婦、家庭教師として金持ちの家に巣食うことに成功する。しかし、金満家族は、彼らに同じ匂いをかぎとる。庶民が醸し出す生活臭である。以降、物語は思わぬ方向に展開していく――。
 釜山であれソウルであれ、あるいは昼であれ夜であれ、路上には屋台が必ずあった。焼き栗であったり赤いタレにつけこまれたトッポッギ(細長い餅)であったり、はたまた昆虫の蒸しものであったりした。
 街にはそれらの食べ物や加熱のための練炭の匂いが漂っていた。その匂いを鼻孔に吸いこむと、ああ韓国に帰って来たなと思ったものである。
 だが、今や屋台は目立つ通りからは消え、街にはそれらが発する匂いがなくなった。近代化と無臭化は、密接に関係すると私は思う(中国も同じ)。
 とはいえ港町・釜山は、健在だった。海沿いのチャガルチ市場周辺は、夕方ともなると屋台が開店し、地元住民や観光客の憩いの場と化する。潮と海の幸とごった煮の香りに誘われ、屋台の客となった。陽の高いうちに船の汽笛を聞きながら屋台で呑む酒は、何物にも代えがたかった。

 釜山は30年ぶりだが、ソウルやその他の都市には何度か来ている。なので韓国社会の変化を知らないわけではない。それでも釜山に来て、改めて気付くことがいくつかあった。
 30年前にはなかった釜山の地下鉄は、郊外まで広がっている。駅名や路線図には日本語や中国語、英語が表記され、3カ国語によるアナウンスもあった。飲食店のメニュー表記もしかり。ちなみに私はハングルは読めるものの、会話は初級レベルである。しかもかなり錆びついていて、あまり使いものにならない。
 日本の都市の交通機関も、3カ国語は当たり前になっているが、言葉に関する韓国のテクノロジーは、いろんな意味で日本よりはるかに上を行っているように思えた。
 ホテルにいる間は、テレビをつけっぱなしにしていた。最初は歌番組やバラエティーを見ていたが、そのうちテレビ東京制作の『孤独のグルメ』を見続けるようになった。日本の居酒屋や料理店、レストランを松重豊扮するサラリーマンが食べ歩くアレである。
 松重の語りには韓国語の字幕が出てくるのだが、看板やのぼり、メニューには韓国語が書かれている。CGで加工しているのだが、最初はそれがわからなかった。違和感なく映っていたからだが、その加工技術に感心しつつ、日本語のメニューを韓国語に変えてしまう発想にも驚いた。私のような初心うぶな韓国人が見たら、日本では韓国語のメニューがあると思ってしまうではないか。
 それにしても30年前は日本文化が解禁されていなかったことを思うと、日本のテレビ番組が韓国で堂々と放送されていることに改めて驚く。もっとも韓国映画やKポップは日本のみならず、世界中で受け入れられている。ずいぶんと差をつけられたものである。

 スマホに翻訳できる機能が付いたのは、かなり前からであろう。私はそれを使ったことがない。チャガルチ市場の化粧品店に、カミさんの北川景子(仮名)と入った。年輩の女性がスマホをかざし「何をおさがしですか?」と日本語の機械音で話しかけてきたときはびっくりした。
 北川景子が顔パックのセットを手に取った。すぐに店員が卓上電子計算機で「5000(ウォン)」とたたいた。私はすかさず「3000」を押し、まけてくれるように交渉したが、けんもほろろだった。再度「4000」を提示してみたが、話にならないね、という顔をされた。
 結果は伴わなかったものの、交渉は翻訳を使わなくても電子計算機さえあればできることがわかって可笑しかった。かつて市場では、丁々発止の値引き交渉が当たり前であったが、そんな時代ではなくなっている。それともそういう店ではなかったのだろうか。

 韓国は日本以上にカード社会だった。地下鉄・バスは、現金は一切受け付けない。カードを買ってチャージすれば、どこでもスイスイ行ける。現金も使える日本が、なんだか遅れているような気がしないでもない。
 地上120㍍の釜山タワーの入場券は、クレジットカードでしか買えなかった。しかもカードを差し込むだけで、暗証番号の入力は必要ない(逆にそれが不安だと北川景子は言っていた)。私が機械の前でまごまごしていると、韓国人のおじさんが勝手にパネルを操作してくれた。カムサハムニダ~。
 タワーには中学生や小学生も行くだろうから、彼らも全員クレジットカードを持っているのだろうか。ちなみに私がクレカを持ったのは、わずか10年ほど前、50歳になってからである。長い間お務めに行っていたわけではない。その頃になって、ようやく私は時代に追いついたのである。
 日本も同じだろうが、スマホによる決済も日常茶飯である。私はいまだに現金派だ。韓国人は私が見る限り、コンビニなどでは全員がスマホ決済していた。会計時に財布やポケットから必死に小銭を探す自分が原始人に思えてならなかった。時間をかけて見つけられなかったときのバツの悪さといったらない。後ろの韓国人が、異星人を見るような目で私を見ていた。

 私が初めて韓国に来た1980年代末は、韓国を旅行している外国人はかなり少なかった。前記した韓国語だけの表記・サインがそれを物語っているが、どこに行っても珍しがられた。ソウル市庁内にある観光案内所で職員と話をしていたら「今晩飲みに行こう!」と誘われ、奢ってもらったこともある。
 現在では街に外国人がいることは日常の風景になっている。これは日本も同じであろう。
 入国後、空港から市内へ地下鉄で向った。市内まで何度も乗り換える必要があったのは誤算だった(韓国では日本と比べてさほど高くないタクシーをお薦めする)。
 何度目かの乗り換え時、いったん改札を出て入る必要があった。ところが何度カードを機械に押し付けても、改札が開かない。何度も試していたら、すぐ前に通過した女子中生(高校生かもしれない)が、わざわざ改札を出て、「こっち」と日本語を使い、駅員室に連れて行って事情を説明してくれた。駅員は手動式のドアを開き、私を通してくれた。女子学生に礼を言うと、少しはにかんで、ホームのほうに去って行った。
 前述したチャガルチ市場の近くの屋台で飲んだとき、豚の皮(あるいは豚足か)の甘辛煮込みが腹いっぱいで食べられなくなった。持って帰ってケンチャナヨ? 身振り手振りで伝えると、鍋から同じ料理をおたまですくい、プラスチックの皿いっぱいに盛って持って帰らせてくれた。アジュモニ(おばさん)は、私たちが日本人であることを知っている。「混ぜて(召し上がれ)」と日本語でも話しかけていたからだ。
 困っている人がいたらたら、すぐに手助けする。得体のしれない日本人にもサービスする。真冬の釜山で感じた、少し早い春風だった。

 ホテルにあった釜山市内の日本語版の地図を見ていたら、「国立日帝強制動員歴史館」が小さく記載されていた。いわゆる観光地ではないためか、” お薦めスポット ” には紹介されていない。日本語のガイドブックにも載っていない。
 週末の午前中にタクシーで訪れた。年輩の運転手に地図を示したが、そんな施設があることさえ知らないようである。ようやく着いたはいいが、入口付近には誰もいない。
「今日は日曜日だから休みじゃないの?」
 運転手が言うので確かめに行ったら、開館しているとのこと。3階建てのかなり大きな施設で、2時間近く見学したが、入館者は7~8人くらいしかいなかった。ちなみに入館料は無料である。
 史資料をもとに、しっかりした展示と(日本語の解説文もある)、最新映像を活用した内容は、さすがは国立施設だなあと思った。
 最後の展示は、下のレールが透けて見える道を歩くしかけである。足元の道も側壁もガラス張りで、鏡のように自分の姿が映るようになっている。解説文の末尾には、こう書かれていた。日本語はなかったので、以下は英語の拙訳である。
「歴史に関する未解決の問題は、私たち全員が責任を取らなければならない事案である。私たちに向けられた鏡は、それら未解決の問題に加え、重要な時期のメッセージを映し出している」
 文章にある「私たち全員」には、日本人が含まれていることは言うまでもない。

 釜山に来たのは、北川景子の知り合いの若い女性が韓国人と結婚するので、式に参加するためであった。新婚カップルは、新郎の故郷である釜山に住むらしい。彼女から話を聞く限り、結婚に関しては何の問題もなかったようだ。
 何よりも新しい環境にすばやく順応する彼女なら、どんな困難も乗り越えてしまうにちがいない。新しいカップルには、どこまでも伸びるレールが敷かれているような気がした。
 結婚式後のパーティーが終わりに近づいたころ、中年の韓国人男性が、私たちのテーブルにやってきた。
「私の両親は20年間、下関にいました」
 それだけ言い残して、去って行った。「シモノセキ」だけが日本語で、発音に訛りはなかった。その地名を両親から何度も聞いていたのかもしれない。
 両親は20年間を下関で過ごし、韓国に帰国後、彼が生まれたのだろうか。あるいは彼も幼い頃まで当地に住んでいたのかもしれない。
 だから日本は自分にとって、まんざら知らない国でもないんですよ。よく来てくれましたね。そう言ってくれているような気がした。
 いっときの交流ではあったが、いつの日か彼らと膝を突き合わせ、酒を酌み交わしながら、歴史や未来について語ってみたい。<2024・2・29>
 

釜山市内でおこなわれた結婚式


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