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「神戸、辞めてどうなるのか。」私篇①

ブログを再開しました。

 7年余り続けていたブログを終了して、1年余りがたつ。50歳で始めたから、タイトルは『五十の手習い』。気が付けば、もう58歳。還暦が迫っているではないか。五十とか、手習いとか、言っている場合ではない。
 すぐに再開するつもりが生来の怠け者ゆえ、ずるずると時が過ぎ、季節がひとめぐりした。ゆるゆるの生活も、もう飽きた。そろそろ錨を上げて、出航(出稿)することにしよう。フリーライターの平々凡々な日常(?)をつづりたい。

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善は急げ!?

 人生も半ばを過ぎると、ああなりたい、こうしたいと夢見ることよりも、ああだったな、こうすべきだったなと振り返ることのほうが多い。後ろ向きに歩いているような気がしないでもない。
 私が社会人になったのは20代の半ば。兵庫県の地方紙記者としてスタートしたのだが、5年弱いただけで、30歳で退社した。その後、私と同じように地方紙を辞めた元記者を取材して書いたのが『神戸、辞めてどうなるのか。』である。
 第1回目は、教師から記者になり、再び教師になった”変わり種”を取り上げた。記者になるまで、なってから、辞めたあと…。話を聞きながら、私の場合はどうだったのかを思い出していた。
 自分のことも、いずれは書くつもりだったが、”善は急げ”というではないか。ブログの再開を機に予定を前倒しして、恥ずかしい半生を記してみたい。何が善なのかはわからないけれど……。

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 社会人としてスロースターターだったのは、学校生活になじめなかった反動で、既定のコースをはずれたがる傾向があったからだと思う。
 正真正銘の子供である小学時代は、幸せだった。あれこれ思い悩むこともなく、将来に対する不安もない。これを幸せと言わずして何と言おう。
 大人の階段を上る、中学・高校時代は、毎日が苦痛だった。校則、体罰、管理主義、集団生活……。世の中から学校がなくなればいいのにと、心の底から念じていた。
 さすがに大学は違うだろうと思ったら、その通りだった。一浪した甲斐があった。83年に入学したのは、唯一合格した関西学院大学社会学部(兵庫県西宮市)である。
 大学は単位さえ取得すれば、あとは何をしようが自由だ。授業のほとんどはつまらなかったが、好奇心のおもむくまま、国際問題研究部、部落解放研究部、障害者解放研究部という「研究」や「解放」が揃った、いかつい名称のクラブに入った。
 自分が生まれ育った国や地域を、世界的な視点から見てみたい、というのが国際問題研究部に入った動機である。部落解放研究部は、私が被差別部落で生まれ育ったので、そのことも考えておかなければならないだろうという、どちらかというと消極的な理由で加入した。
 国際問題研究部の先輩に連れられて阪神間のアパートで自立生活を送る障害者の介助に入っていたことから、障害者解放研究部のドアをたたいた。メンバーに、現在はDPI日本会議の事務局長を務める佐藤聡がいる。
 世界的な視野を持ちつつ、国内の問題にも目を向ける──と言えば、恰好がよすぎるだろうか。ただ、これらの問題は、以後、私にとってライフワークとなる。

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 介助に通っていた自立障害者の紹介で、学内の障害者とも知り合った。中学時代にプール事故で頸椎(けいつい)を損傷した横須賀俊司(よこすか・しゅんじ)という男がいた。首から下が動かない重度障害者で、ベッド以外は”車イスの人”である。
 当初は自宅から通学していた彼が、大学の寮で自立生活を送ることになり、私も介助者の一員に名を連ねた。介助以外でも用もないのに寮を訪れては、一緒に酒を飲んだり、だべったりして長い時間を過ごした。
 彼は受傷して1年ほど入院しているので、私と同学年である。ともに4年生になり、進路をどうするかを考えなければならなくなった。
 80年代半ばにおいて、障害者の就職は、現在よりはるかに厳しかった。重度となると、なおさらである。
 手足を自由に動かすことができない彼を迎え入れる企業や自治体は、見つからなかった。そこで私たち介助者は、在籍する大学への就労を働きかけることにした。キリスト教系だったので、建学の精神に基づく社会的弱者の救済を訴えたのである。
 ところが大学側は、勤務時に介助を必要としないことを就労条件に掲げ、雇用の門戸を閉ざした。受験することさえ叶わなかった。
 就労条件を緩和させるべく、翌年も当局と交渉を続けた。そのため、彼も私も留年した。健常者の私だけが就職するわけにはいかない。また、その気もなかった。

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 けっきょく2年目も就労条件は変わらず、大学職員になることは諦めざるを得なかった。法学部生だった彼は、福祉を学ぶために、同じ大学の社会学部の大学院に進み、その後、大学の教員になる(鳥取大学→県立広島大学准教授)。私は就職活動をしないまま卒業し、アルバイト生活を送った。今でいうフリーターである。
 大学を出て、したいことが二つあった。在学中の87年に、韓国をひとりで訪れたことがある。猥雑で人懐こく、エネルギーに満ちた街と人々に、たちまち魅せられた。観光客はまばらで、ソウル市庁舎内の観光案内所を訪れると珍しがられ、居酒屋で奢ってくれたりした。ここで言葉を学ぶのも面白いと思った。
 今でこそ韓国は、映画・音楽・テレビドラマなどにおいて世界中で人気を博しているが、当時はまだ軍事独裁政権下で、行く前は”怖い国”という印象しかなかった。そのマイナスイメージが、ガラリと変わったのである。
 ひとつの国にとどまり、じっくり当地の文化にひたるのもいいが、五大陸を見て回りたいという考えもあった。旅の途中で、自分に向いた職業を見つけることができれば、それもいい。
 大学3年生のとき、フィリピンをひとり旅した際、セブ島の安いホテルで、額に汗して働く日本人の若者がいた。現地に溶け込む姿を見て、ああいう生き方もいいなと夢想した。
 そもそも私には、大学を卒業して社会人になるイメージがわかなかった。韓国に語学留学するにしろ、世界貧乏旅行をするにしろ、少なくとも数年間は日本を離れたいと考えていた。それもこれも、中学・高校時代に”地獄の季節”を味わった経験があるからだろう。

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 88年の春に大学近くの下宿を引き払い、兵庫県加古川市の実家に帰って、アルバイト生活を始めた。海外に行くには、まずは資金を貯めなければならない。
 向いているとは言えない事務職を続けていたが、5月の連休が明けてから、ふと考えた。留学も世界貧乏旅行も、何歳になってもできるのではないか。今やるべきことは何なのか……。
 そうだ、楽しみは後にとっておこう。かのベートーベンも、「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」とのたまったではないか。暗黒時代の中学・高校のあとの大学は楽しかった。社会人を経てからの自由は、より楽しくなるに違いない。自分に向いていないことをやろう。まずは就職だ……。
 脳内でベートーベンの歓喜の歌が、高らかに鳴り響いた。とはいうものの、就職活動の経験もない既卒者である。当時は民間企業は既卒者を受け入れてくれなかったし、実直さが求められる公務員は向いていない。そもそも、勉強しても受からないだろう。
 活字・本好の私は考えた。新聞社がいいかもしれない。既卒でも受け入れてくれると聞いている。高校時代に新聞記者が書いた著作を好んで読み、憧れたではないか。
 そういえば大学4年生のとき、学友に「角岡君、新聞社受けたらどう? 絶対向いてると思うよ」と言われたことがあった。一足先に新聞社に採用された別の学友に連絡を取り、どんな準備をすればいいかを聞き、漢字の書き取りなどを始めた。
 各社の初夏の採用試験(青田買いのセミナー)まで、数週間しかなかった。

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 全国紙と共同通信、地元の神戸新聞を受験することにした。神戸新聞の申し込みは、締め切り日が迫っていたので、本社まで書類を持参したことをおぼえている。
 受験した全国紙と地元紙とでは、本音を言えば前者を希望していた。そもそも日本脱出を切望していたのは、中学高校の忌まわしき思い出がある地元を離れたかったからでもある。だが、これといった準備をする間もなく各社を受験したので、全国紙はほぼ全滅であった。
 作文審査を経て、筆記&一次面接まで進んだ共同通信は、私服でもオッケーと書いてあったので、普段着で会場に行ったら、すべての受験者がスーツ姿で来ていた。
 服装では目立ったが、成績はそうでもなく、二次面接に呼ばれることはなかった。

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 神戸新聞で面接に臨む際、人生で初めてスーツを買った。洋服の青山で一番安い、紺色のそれである。
 合格通知の葉書が届いたときは嬉しかったが、同時に「この会社、俺なんかを入れて大丈夫なんだろうか?」と心配になった。歳はくっているが、社会経験があるわけではない。浪人、留年、既卒で計3年ダブっている、ただのプータローである。
『神戸、辞めてどうなるのか。』にも書いたが、当時の地方紙は、地元の大学を卒業した者か、そこの出身者しか受験できない社が多かった。
 神戸新聞はそれらは関係なく、しかも年齢も27歳まで受けることができたので、私のような”雑種”も入ることができたのだと思う。バブル経済がはじける前だったので、採用枠も多かった。
 ちなみに最終面接で一緒になり、面識を得たが神戸には入らず、毎日新聞に入社した男性がいる。私より2歳上で、大学を卒業後、一般企業で5年ほど働いた経験を持つ”立派な大人”だった。
 別々の会社に入ったが、年賀状のやりとりは続けていた。彼はそのうち特派員としてアフリカや南米に赴任するようになり、疎遠にはなったものの紙面では名前を見て、その活躍を知ることができた。海外特派員の記事は、名前が明記されることが多いので、わかりやすい。
 後年、特派員経験を活かした作品『絵はがきにされた少年』で、開高健ノンフィクション賞を受章する藤原章生記者である。

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 大学時代、就労闘争をともにした重度障害者の横須賀俊司は、昨年の秋に肺ガンで亡くなった。58年の生涯だった。
 体調を崩して休職し、勤務する大学がある広島県内から、故郷の西宮に居を移して久しかった。ガン発覚後は入院を余儀なくされたが、薬漬けの病院を嫌い、自宅で療養を続けていた。
 何度か見舞いに行ったが、やつれていく姿を見るのがつらかった。あれだけ食道楽だったのに食欲はなく、水分の補給さえままならなかった。
「安楽死を求める患者の気持ちがわかる」
 私にそう漏らしたことがある。彼は障害を全肯定する研究者だったので、安楽死には反対していた。私は返した。
「お前の立場になったら、俺もそう思うやろう。けどな……」
 そのあとの「生きてくれ」という言葉が続かなかった。
「また来るな」という言葉をかけ、入口のドアを出て駅に向かう途中、涙があふれ出て困ったことがあった。今でもふと、あいつはもういないんやなぁと、しみじみ思うときがある。
 性格は私同様ひねくれていたが、面倒見がよかったのだろう。学生には好かれていて、自宅には教え子がよく訪ねてきていた。
 大学職員にはなれなかったが、そのおかげで教職に就くことはできた。それはそれでよかったのではないかと思うようにしている。(つづく)

<2022・2・10>

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