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わたしは性善説も性悪説も信じない、システム説を唱えたい

最近、誰かが誰かを責めている声をいつも聞いている。なんだか、世の中は悪意に満ちていっぱいのような気がする。特に、snsを通して簡単に自分の声を発信できる今の世界では、他の誰かへの悪意が簡単に拡散されてしまう。

Twitterのトレンドには、「アベノマスク」に続いて「うちで踊ろう」がランクインし、安倍総理は国民の求めていることがまったく分かっていない、といった批判のツイートをする人がたくさんいる。

テレビをつけると、「クラスターの発生源となっている地方出身者へ怒りの声が相次ぐ」なんてニュースがひっきりなしに流れてくる。

今回のコロナウイルスの件に限らず、人は安易に人を責めがちだ。
自分の思うように相手が動いてくれなかった時、自分が我慢していることを他人が平気でしているのを知った時など、日常のさまざまな場面で「人が人を責める」というイベントは頻発している。

ひとは社会的な生き物だ。人間である以上、たくさんの組織に所属して、生きている。もっといえば、大きな「社会」という枠組みの中にわたしたちは存在している。
そして、社会的に求められる役割をうまく演じながら生きていかねばならない。
そんな中で、一人の人間が起こした行動に対して批判をするのは、お門違いではないかと思うのだ。

「安易に他者を批判するのは、相手への想像力や思いやりが欠けているからだ」という人がいる。ほんとうにそうなのだろうか。たしかに、一時の怒りに任せて他者を傷つけてしまう人がいないわけじゃない。でもほんとうに欠けているのは、「他者への想像力や思いやり」ではないと思う。

あの人がこんなことを言っていた、だからあの人は悪い人だし嫌いだ。だけどこの人は他人の気持ちを思いやれる優しい人だから好きだ。気持ちはわかるけどそれではいつまでたっても問題は解決しないと思う。

そこで私は、性悪説でも性善説でもない、システム説を唱えたい。


何かうまくいかないことが起こった時、誰かひとりのせいにするのは簡単だ。
ただ、もっと大きな視野でその人を取り巻く環境を捉えると、その人によくない行動をとらせた社会のシステムに問題があると気づくことができるのではないだろうか。

人は、所属する環境によって天使にも悪魔にもなり得る。だからこそ、人の性質そのものを責めるのではなく、その人の行動を左右している環境、システムに目を向けるべきなのだ。

人を変えるのは大変なことだ。現に、誰かに注意されたらといって人はすぐに変わるものではない。だけど、システムを変えることは簡単だ。システムを変えれば、そこに所属する人を否定することなく、未来をよい状態に変えられると思う。

わたしは、じぶんのありのままを認めてくれる人が大好きだ。願わくばいつもそんな人たちに囲まれていたい。逆に、自分の性質を否定されると、とても悲しいやりきれない気持ちになる。誰だって同じだと思う。

「あの人が悪い」ではなく、「あのシステムが悪い」

もっとたくさんの人がこうした考えに切り替えることで、悲しんだり傷つく人も減るんじゃないだろうか。