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箱根の親不知(脚気地蔵)

神奈川県・箱根町と静岡県との県境の箱根峠近くの平坦な草むらの中に立つ脚気地蔵(親知らず地蔵)と呼ばれる地蔵尊碑があります。
その石碑にまつわる悲しい伝説があって土地の人はそれを「親知らず地蔵」と呼んでいます。この石碑には次のような物語があります。

江戸時代中期の安永の頃、大阪京橋で呉服問屋を営んでいた堺屋十郎兵衛の一人息子の喜六が道楽に身を持ち崩した上に、行く先が知れなくなりました。十郎兵衛は一人しかいない子供の事が心配で殊に老い先短い事もあって、なんとか探しあてて、家業を譲りたいと方々訪ね回りました。風のたよりで、息子が江戸で放浪していることを耳にしました。母親はその話を聞くと枕もあがらぬ大病になってしまいました。十郎兵衛は、妻のためにも、なんとかして息子を探し出そうと老の身もいとわず、息子を探す旅へ、大阪から江戸に向かいました。たまたま、大津の宿で、それらしい男が箱根で雲助をしているという噂を聞き、まず三島を訪れ、雲助の立ち回り先や、問屋場など捜してみましたが、息子を見つけることはできませんでした。そこで、次の目当ての箱根宿に向って街道筋の立場や、往来の雲助の顔をのぞきながら、ようやく箱根峠近くまでたどり着くと、もう日も暮れかけていました。ちょうどそのとき、運悪く持病の脚気に襲われたのです。持っていた薬を口にする間もなくそこに倒れ、息も絶えるほど苦しんでいました。すると、たまたまそこを通りかかったのが息子の喜六でした。しかし、まさかこの息も絶え絶えに苦しんでいる老人が、自分の父親だとは夢にも思いませんでした。思わず駆け寄って抱き起こしてみましたが、もはや手の施しようもない状態でした。仕方なく石畳の上に寝かせたとき、老人の懐からずしりと重い財布が抜け落ちました。辺りはもう既に薄暗くなり、どこにも人影は見えませんでした。それで、つい魔が差した喜六は老人の腰の道中差を抜いて、一気に老人の息の根を止め、金を奪って一目散に坂を駆け降りました。革財布の中の7両2分の大金に、一度は喜んだ喜六でしたが、財布の底にあった名札「大阪京橋・堺屋十郎兵衛」からその老人が自分の父親であったことが分かり、びっくり仰天しました。彼は一目散に引き返して、死骸に取りすがり、泣いて詫びましたが、すべては後の祭りでした。哀れな喜六が、この事実を書き置きとし、山中新田の宋閑寺で、同じ刃で自害したのはその翌朝のことでした。

宋閑寺

現在あるこの地蔵尊碑は、土地の人々が、この親子のこの上ない不幸な巡り合わせに同情し、2人の冥福を祈って建てたものです。この碑は以前あった場所から移されているが、当時は「墓」であったと思われる。後年この碑が脚気地蔵と呼ばれ「脚気」に効くと言われ信仰を集めた。

また、江戸時代の箱根宿では子守唄にうたわれていた俗謡が有ります。

 親は箱根で
 子は山中で
 別れ別れの
 なみだ石

余韻の長い悲しげな唄です。「箱根親不知」の一端を語るものです。

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