てがみ座『汽水域』

12/5(金)観劇。シアタートラム

てがみ座のサイトに、この作品についてこう書かれている。

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ニホンウナギは日本から3000km先、マリアナ諸島西方で生まれる。
潮流を漂いながら、フィリピン沖で黒潮に乗り、遙かな日本の河川を目指す。
フィリピンの河口でウナギの密漁をしていた、かつての少年は自らのルーツをもとめて、日本へ向かう潮流に乗る。
過去を問い直すことの根幹にはアイデンティティの探求が必ず含まれている。
今の自分は何者なのか? ――汽水域からアジアを見渡す、ある喪失の物語。──   ──   ──   ──   ── 

確かにそういう物語なのだけれど、汽水域=淡水と海水が混じり合う場所、一見同じに見えて異なる二者、表面は静かに見えても進んでいく出会いと別離、潮流のように移動せずにはいられない者たち……などの美しいイメージが次々に浮かんで、それをすべて詰め込んで書いた、という印象。

時代ごとに変わってきた日本とフィリピンの関係。それに翻弄される人々。フィリピンの急速な近代化。経済の発展とその裏で失われるもの。親と家を捨てて独立する子供。家族の絆。実る恋、実らない恋などが、どれも太書きで描かれる。
世界を丸ごと自分の言葉で捉えようとする脚本家・長田育恵の心意気は頼もしい。でも、隙間をつくらずぴったり包むより、ゆとりのある大きな布で包んだほうが、地球は自転しやすい。人間は呼吸がしやすい。長田がすべきなのは、書く対象をより深くと伝えるための言葉探しではなく、書く対象を信用し、彼らが自ら動き出す余白をつくることだ。

また、長田の書く言葉は全体に知的、詩的で、文学者や研究者といった知識層のせりふとしては無理なく聞くこともできるが、社会の底辺に生きる生活者(たとえ、政府に対して立ち退き反対の運動をする意志を持っているとしても)の口からそれが出るには、ひと息が長過ぎ、また、理路整然とし過ぎて違和感がある。
自分の心情を的確に語ることができる人物は、観客からすると、想像力という観客の助けが要らない、魅力の薄い人物だ。ひとりひとりに、その作品の中で生きた証となるせりふを書くのは、劇作家にとっては平等の愛でも、観客にとってはむしろ没個性に感じられる。また、その人物が置かれた環境と言葉が乖離して、頭の中で人物造詣をする途中でノッキングが起きてしまう。
特に今作のような設定の作品には、生活者の不器用な言葉、言いよどむ時間がほしかった。直接的に美しいせりふではなく、耳から心に落ちていく過程で観客の心に豊穣なイメージが湧く、いわば陰のせりふを、長田はもう書けるはずだ。






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