星が司る人間の宿命を描いた『子午線の祀り』で、地上にあって人間を規定するものは──

「一番短い呪いの言葉は何か、知っているか?」
夢枕獏の『陰陽師』シリーズの中で、安倍晴明が源博雅に問う。その答えは「名前」だ。相手の名前さえ知ることができれば、呪いをかけるのは容易なのだ。

杉浦日向子の『百物語』の一篇『枕に棲むものの話』は、枕の中から不思議な話し声が聞こえ、それらがさまざまな人名をつぶやくので、幼い少女は思わず、生まれたばかりの弟の名前を言う。と、枕の中から歓声が湧き、ほどなく赤ん坊は病気になって死んでしまう、という話だった。

かつて名前は、現代の感覚より遥かに神聖で、多様な意味を持っていた。自分と他者を分けるものであり、命の依代であり、身体を外界から守る結界であり、時には次々と乗り換える容れ物であり、悪いものから正体を隠す御札のような役割も果たしていた。

世田谷パブリックシアターで上演中の『子午線の祀り』を観ながら、あることが気になった。

『子午線の祀り』は、1978年に発表された木下順二の大作で、『平家物語』を下敷きにした古文と現代文を混在させて書かれている。どれくらい大作かというと、今回、演出の野村萬斎によって多少のテキレジが施されたそうだが、上演は3時間50分(20分の休憩を含む)に及ぶ。それ以上に、劇作家の芸術的野心が壮大だ。
壇ノ浦の合戦をクライマックスに、平家、源氏それぞれの動き、特に平知盛と源義経の心情が緊迫感をもって描かれているのだが、そもそも木下がこの戯曲を書こうと思ったきっかけが、自然の力の神秘だったという。壇ノ浦で源氏が勝利したのは、その日の潮の流れを義経が読んでいたこと、つまり月の満ち干きが歴史的合戦の雌雄を分けたと知ったことだった。その結果、この戯曲は、『平家物語』と宇宙からの視点を立体的に組み合わせ、さらに、日本の古典芸能と新劇のせりふ術が交差させて書かれた。

おそらく、木下の狙いはほとんどすべて高いレペルで成功していて、名作の誉れ高いのも素直にうなずける。
オープニングと、その後に何度か挿入される「読み手」による宇宙の話は、決して柔らかな表現ばかりを選んでいないのに、あっという間に観客ひとりひとりに、億千の星が散らばる宇宙空間に体ひとつで浮かぶ感覚を、もしくは、地球の表面からわずかに浮かんで天空の進行と一体になる感覚をもたらしてくれる。そこに書かれているのは、地球の引力や月の引力だけれども、何よりずっと強い作用を及ぼすのは、端的で的確、そして空間的、時間的リーチの長い言葉を紡ぐ木下の筆力に他ならない。
その筆力は『平家物語』をベースにしたシーンでも如何なく発揮されるのだが、物語が進むにつれ、私は妙な違和感を覚えた。

それは、登場人物がやたらと相手の名前を呼ぶことだ。話しかけているのは眼の前にいる相手とわかりきっているのに、何度も名前を繰り返す。と同時に、話しかけられている相手も、自分で自分の名前を口にする。
たとえば、第三幕第二場、新中納言知盛(しんちゅうなごんとももり=平知盛/野村萬斎)と、家臣に当たる阿波民部重能(あわのみんぶしげよし/村田雄浩)の会話。

知盛 ただそれだけを言いに戻ってきてくれたのか、民部。
重能 この考え、お取り上げ頂けますや否や。
知盛 ──民部よ、子息田内左衛門のことは知っているな?
重能 判官殿の虜となって、臣下の誓いを立てましたそうな。(略)
知盛 子は依然四国の領地に留まり、(中略)民部、胸の内にはいろいろと思いもあろう?
重能 新中納言さまはそのようなことを(中略) この民部を、まさかお疑いとは──
知盛 疑いはせぬ。疑いはせぬが──
重能 それに民部も、数度の戦に鍛えられました。(中略)民部、神明に誓ってさよう心得ます。
知盛 民部! よくぞ申した。(中略)民部が船に戻る途中、(略)
重能 はあ。──
知盛 どうした、民部?

わずか数分、他には誰もいないふたりだけの会話で、いくらなんでも「民部」、多過ぎ。原作があるとか会話のリズムとか、理由はいくつか考えられるが、天下の木下順二がこれだけ同じ単語を繰り返すのは不自然で、何か根性があると考えるのが普通だろう。

知盛の敵役である九郎判官義経(くろうはんがんよしつね=源義経/成河)の名前についても興味深い。義経は呼ばれ方のバリエーションがやたらと多いのだ。
「義経殿」「判官殿」、家来の弁慶からは「おん大将」、同じ源氏の仲間でありながら反りが合わない梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき/今井朋彦)には「御曹司」「九郎御曹司」と呼ばれ、自らは「義経」「九郎義経」に加えて「鎌倉殿の弟」とも名乗る。

一体どういうことなのか? 

もったいぶるまでもない、これは作家による、ひとりの人間を形づくるもの、規定してしまうものの提示ではないか。
名前を多く呼ぶこと、呼ばれることで、人と人は容易にほどけない絆を、縁を、つくっていく。子どもが親を懐かしく感じるのは、人格が形成されるまでに誰よりも多く自分の名を呼んだ存在だから、という説もある。
前述のシーンで知盛が何度も「民部」と呼ぶのは、民部を信用しきれない不安の裏返しだ。目を見て「民部」と呼ぶ度、そこに真の忠誠心があるかを読み、相手の忠誠心を呼び起こし、主従の絆をきつく結ぼうとしている。結局、知盛は民部に裏切られるのだが、民部も幸せにはならない。絆がねじれている時、結ばれた糸によって両者は共倒れになるのだ。

義経の不幸もまた、呼ばれる名前の多さから浮かび上がってくる。「おん大将」には尊敬と情愛が含まれているが、「御曹司」は明らかにお坊ちゃま扱いの侮辱が含まれている。義経の「判官」という社会的地位が「鎌倉殿の弟」と相容れず、平家を壊滅させる大手柄を立てながらも彼が悲劇的な末路をたどることは、後世の人間はみな知っている。
そう、義経が背負う名前の多さは、彼の立場の複雑さ、引いては、どう動いても足をすくわれる八方塞がりの状態の現れで、常に前のめりに義経が行動する理由もそこにある。

世田谷パブリックシアターのサイトにあるように、『子午線の祀り』は「天」の視点から人間たちの葛藤を描いている。でももしかしたら木下順二は、人の力の及ばない天の采配、星の進行が司る運動だけでなく、いつの間にか人間同士がつくってしまう“地上の宿命”の存在を、名前に託して書いたのではないだろうか。天に抗っても当然、勝ち目はなく、その戦いは絵空事になりかねない。源氏と平家の物語がかくも長い間、私たちの胸に迫るのは、人がつくり出したものに彼らが絡め取られ、そこに抗う姿が人間的だからだろう。人がつくり出した身分、愛憎、欲望、関係などの集約が『子午線の祀り』においては人名なのではないか?
木下順二が生きていたら、聞いてみたかった。

ところでTwitterにも書いたが、今回の上演は野村萬斎の演出が素晴らしく、身体の向きやセットの使い方といったミニマムな動きで、平家と源氏の区別を見事に見せている。ふたてに分かれた戦いというと、衣裳の色を変えて区別することが多いが、それがなくても充分に観客が理解できる。
萬斎は、シェイクスピア劇を意識したという木下が仕掛けた通奏低音を丁寧にすくい取っていて、たとえば私は義経をマクベスだと思った。潮目が味方して自分たちが勝つとわかっていたのに、反対を押し切って戦のルールを破って平家を攻める姿が、王になると予言されたのに自ら殺しに手を染めるマクベスと重なったから。

フレキシブルに使える小さな階段と、波の動きのように前後に動く高さのある舞台美術(松井るみ)もいいし、強いせりふの下に隠した不安などを繊細にとらえる照明(服部基)も素晴らしい。
俳優は、萬斎、成河、今井、村田、そして若村麻由美はいずれも見事。弁慶役の星智也も忘れがたい。

そうそう、夢枕獏の『陰陽師』が映画化された時、安倍晴明を演じたのは野村萬斎だった。不思議な縁を勝手に感じている。


2017年7月23日まで、世田谷パブリックシアターで上演。







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