『8─エイト─』をめぐる雑感

7月に、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭のイベントのひとつとしてリーディング上演された『8エイト』が、フェスティバル/トーキョーで上演されるに当たって、元のままの戯曲でなく、演出の西尾佳織が『8』をもとに書き下ろした新作『透明な隣人〜8─エイト─によせて〜』になるという。

 http://www.festival-tokyo.jp/14/program/invisible-neighbors.html 

リーディング後、戯曲がひどいという意見がかなり出ていて(アフタートークでの俳優の意見─さすがにひどいとは言わなかったけれど、みんなかなり戸惑ったと─やTwitterで)、その内容は『8』がアメリカで実際にあった同性婚をめぐる裁判をもとにしていて、勝者による勝者のためのプロパガンダのような、あまりにも機微のない内容というものだった。

 確かに、同性婚に反対する被告サイドの弁護士の無能ぶりは徹底的で「こんなに大事な裁判に、こんなに初歩的なミスを連発する人を選出するのか」と不思議になるほどだった。それと並行して描かれる、同性婚を認めよと主張する人々はみな冷静で知的で、その人物造詣は、演劇的には退屈なものだった。 

でも私はそこまで可能性の無い戯曲だとは思えなかった。理由はひとつ、ラストに同性婚をしている夫婦(どちらも女性)の息子のひとりが言う「誰ひとり、何もわかっていなかったよ、誰ひとり」(記憶なので正確ではないかも)が引っ掛かったから。両親の裁判に付き合わされた息子ふたりは早く帰りたがっていて、その理由は、ひとりが「テストが近いから」、前述の言葉を言う息子は「サッカーの練習があるから」。 

サッカーというのがおそらく重要で、前回のワールドカップでは上位に食い込んだけど、アメリカでサッカーが強くなったのはごく最近で、あの国でメジャーなスポーツといえば、まだまだ野球、アメフト、バスケが強力であり、そのどれとも違う新進のスポーツであるサッカーに熱心に取り組む、つまり、アメリカにおける最新の嗜好/指向/志向を持つ若者(正確には子供だけど、それだけに本質的な何かを直観的に感じ取っている)に「誰ひとり、何もわかっていなかったよ、誰ひとり」と言わせて裁判の勝者も敗者も無効化してしまうことが、おそらく作者のやりたかったことなのだろうと私は理解していたのだ。

 西尾はとても丁寧に戯曲を読み込む演出家だから、リーディングの前の段階で、そんなせりふは充分に検証していたのだろうけれど「勝者による勝者のための」でも、「勝者と敗者の二項対立」でもない、もともと『8』が持っているポテンシャルを起点にした舞台が観たかったなと、ちょっと寂しく思ったりしている。      

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