終演した舞台の感想。『うえる』

11/30観劇。
昨年のアジア舞台芸術祭2013のワークショップ参加演出家だったシンガポールのチョン・ツェシェンが、そこで披露した短編をフルサイズにリメイク。短編もフルサイズも国際共同制作で、俳優はシンガポール人、日本人の混合。昨年のアジア舞台芸術祭のテーマが「稲作、米」で、『うえる』は、稲を植える、米に飢えるの意味も含み、食にまつわるさまざまなエピソードから家族や地域などの共同体を描いていること、糸を使って空間を区切ったり、田んぼの畝を表したりという演出は、両作に共通。
ただしストーリーは大幅に変わっていて、フルサイズバージョンは、ニューヨークで死んだ日本人男性が、死んだあとも妻にメッセージを送り続け、それを脳でダイレクトに受信できてしまう妻が、夫の遺体を車椅子に乗せて飛行機に搭乗し(「死んだ人は乗せられません」と言う航空会社の係員に「病気で眠っていると思ってもらえばいい」と説得してOKをもらう!)、彼の故郷に向かうという話に。これが一種のおとぎ話かと思うとそうではなく、男の家族が離散したつらい思い出や食の安全といったシリアスな問題が合間合間に描かれていく。その後のストーリーも書くと、すでに家族はひとりもいない男のふるさとは東日本大震災による原発事故らしき災禍に遭って避難命令が出ているのだが、男とその妻がやって来るのを、男の実家の近所に住むひとりの女性がなぜか予知していて(子供の頃、男はこの近所のおばさんを魔女だと思っていた)、実の娘の「すぐに避難して」という願いも退け、放射能汚染の危険も顧みずに家に留まり続け、夫婦が来るのを待っている──。ファンタジーとプロパガンダが溶け合わないままくっついたようなこの話は、提示した問題全部を“家族で食べるおいしいご飯”という着地点で終わらせる。

というわけで、家族の崩壊や放射能と食材という極めてセンシティブな問題にこの作品が出した回答があまりに呑気で驚いたのだが、さらに驚いたのは、ラストシーンの“おいしいご飯”が電子ジャーで出てきたことだった。原発事故を批判するなら、電気を使う道具をそこに出すのはあまりに無神経ではないか。

だがよくよく考えてみると、そこに集まったのはすでに死んだ人がほとんど(もしかしたら全員)で、その宴に供されるご飯を電子ジャーで出したのは、実は大いなる皮肉というか、暗い示唆だったのかもしれないと、日が経ってから思っている。ただ、もしこの予想が当たっているとしても、その皮肉と釣り合う内容を、今のところ見つけられていないのだが。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?