『ビッグ・フェラー』@世田谷パブリックシアター(6/8まで)、地方公演あり

1972年から2001年までの、IRA(アイルランド共和軍)のNY支部が物語の舞台という、かなりひねりの効いた設定。マクドナー作品でお馴染みのIRAは、それなりに大きな組織だろうとは思っていたけど、国外に支部があるなんて、この作品を観て初めて知った。

もちろん、そんな看板を堂々と掲げているわけではなく、ブルックリン辺りにあるごく普通のアパートが秘密裏に、メンバーの住居、会議室、溜まり場、移動中のメンバーの一時滞在場所として使われている。そこに暮らす新入りのマイケル(浦井健治)も、お調子者の先輩ルエリ(成河)も、支部長でビッグ・フェラーと呼ばれるデイヴィッド(内野聖陽)も、それぞれに職業を持ってアメリカに溶け込みながら、IRAの一員として密かにイギリスへの報復や効果的なテロを考え、武器を購入したりしている。

脚本のマイケル・ビーンは、『ハーベスト』という作品が去年、今回と同じ森新太郎の演出、同じ世田谷パブリックシアターで上演されている。そこでは養豚場を経営するイギリス人男性の100年を描いていた(せりふのひとつひとつに、生活という出汁とウィットという香辛料がたっぷり染みて、見てくれは地味だけど美味しいスープのようないい舞台だった)が、ひとつの時計に添って話が進む前作に比べ、『ビッグ・フェラー』は物語の中に3つの時計が同時に動く。すなわち、アメリカ、アイルランド、イギリス。それらのズレが生むものを、ビーンは残酷なほど丁寧にすくい取る。『ハーベスト』ではイギリス人、それもコメディアン出身という経歴らしく、これでもかとウィットを発揮していたが、今作は粘り強い観察と冷静な描写にそのエネルギーを注ぐ。

例えば、「IRAのひとつだけイヤなところは、殺すことだな」と、本部だったらおそらく口にできないようなことを言い、IRA本来の厳格さとは程遠い感性で生きる彼らが、本部の命令に従って、罪を犯していないことは明白な、誰よりも頭脳明晰なメンバーのエリザベス(明星真由美)を殺すのは、自分達と本部の間にはズレなどまったく無いという証を立てるため以外の何ものでもない。あるいは、進んだ時計を訂正するための行動だ。でもそれは、テロ組織特有のマチズモが女性を犠牲にしただけで、本部と支部のズレは取り返しがつかないほど広がっていた。それがはっきりするのは、ある情報を漏洩させた犯人を探しに本部からやってきたフランクという男に、デイヴィッド達が逆襲するシーンだ。決して長くないシーンだが、ここでフランクを演じる小林勝也がとんでもなく素晴らしい。並外れた凶暴さで伝説の存在であり、妻を暴力とセックスで支配して6人の子供をつくり、アル中をセラピーで克服した自信の塊が、アメリカで経済的に成功したデイヴィッドの前ではあっという間に、ただの田舎者になってしまう。同じ志を持つ者同士でありながら、NYにいる者はどうしたってエスタブリッシュメントされ、それは優位性になる。巧みにそれを操るデイヴィッドに飲み込まれて破滅していく男を、小林は1ミリも大き過ぎず小さ過ぎず演じている。張りのある光沢紙の間に挟み込まれたしわくちゃの古新聞のような枯れた味わいに唸ってしまった。

俳優は他に、世間の手垢も、テロリストとしてのロジックも、明確な意志も身に付けないままテロ組織の中で年を重ねていくマイケルを演じた浦井がいい。無垢な役は『ヘンリー六世』(演出:鵜山仁、09年、新国立劇場)のタイトルロールが当たってから十八番のようになっているが、マイケルの空洞はこれまでの役の中で最もしんどいものではないか。そこでじたばたしないのがこの人の長所で、間近でひどい出来事を見ても、自分で誰かを傷付けても、汚れの目盛りが自然とリセットされるマイケルは、そんな浦井だからこそ具体的に形になったし、エピローグのあののどかな時間と結びついた。あそこで初めて、なぜマイケルの職業が消防士なのかが明らかになるが、彼が死んでアメリカのヒーローのひとりになればあまりに皮肉だし、もし無事だったとしたら、彼がその後の人生で向き合っていくことになる矛盾はやはり、あまりに大きい。アイルランドとイギリスの紛争が私達に近付くのは、この時だ。

最後に、明星真由美についても。出演作をきちんと追いかけているわけではないけれど、以前、『氷屋来たる』(演出:栗山民也、2007年、新国立劇場)で、それまで何作も観ていたはずなのに、明星真由美という女優に初めて出会えた気がして、今回はそれに続いて2度目の邂逅。正しくは、出会ったというより、いよいよ全身のパーツに油が回って伸びやかに動くのを感じた。もしかしたら、新劇の演出家と相性がいい人なのかもしれない。


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