優雅に、瑞々しく、難解は踊る。シス・カンパニー『アルカディア』    2016.04.15 @シアターコクーン

優雅に、瑞々しく、難解は踊る。シス・カンパニー『アルカディア』    2016.04.15 @シアターコクーン

徳永京子

 このところ「何だか皆さん、“わかりにくい”ということを、演劇の懐の深さに甘えて都合良く解釈してやいませんか」と不貞腐れ、背中を丸めて劇場をあとにする観劇が続いていたが、その苛立ちや落胆を全部ひっくり返し、背筋を伸ばして正座して「やっぱり演劇、最高です」と言いたい気持ちになった、『アルカディア』を観て。
 たとえあと5回や6回劇場に足を運んでも、トム・ストッパードが戯曲に組み込んだ仕掛けを私が拾い切ることはできない。物理学や数学や天文学や文学の一定の知識を前提にしたせりふが、何でもない日常会話のテンションで次々と発せられるし、19世紀イギリスの貴族階級で自宅の庭園づくりがどんな意味を持っていたかも知っているに越したことはないのだろう。それらがスカッシュのボールのようにパワフルにスピーディに飛んで来て、息つく間もなく話は進んでいく。
 だから最初は振り落とされそうになるのだが、終わる頃にははっきりとわかる。この戯曲の難解さは、美しく、軽やかで、世界に向けて大きく開け放たれていることが。休憩明けの二幕が始まったあたりから、頭の中で起こるのである。ごくわずかな私の「知っていること」と、たまに出合う「わかったこと」が、無数の「未知」とつながって響き合い、難解が快感になっていく体験が。

 よく「笑って泣けて感動するわかりやすい演劇」と対抗する形で、もっと言えばそれを低俗だと位置づけ、知的で優位に立つものとして「明確な答えを提示しない演劇」「観客が考えるきっかけになる演劇」を位置づける動きがあって、私自身もそちらのタイプのほうが断然好きなのだけれども、冒頭に書いたような、戯曲を消化・昇華できていない演出や演技が、言い訳として「難解さ」を正当性の盾にするケースが少なからずあって、その度にもどかしい想いを感じていた。観客の情動や想像力を動かすことができない演劇があるとしたら、それは「難解」以外の理由によるものだ。要は、戯曲が難解なのが問題ではない、難解をどう扱うかなのだ。

 その点で、小田島恒志訳、栗山民也演出の『アルカディア』は、超ド級にハイコンテクストな戯曲を、なんとも優雅に伸び伸びと踊らせている。その踊りは上品な上に疲れ知らずでユーモアもたっぷり含んでいるのだが、決定的に美しい。そちらの方面はまったく不案内なのであくまでも予想だけれど、おそらくその美しさは、数学の高次元の数式が、複雑な計算よりもシンプルな直感で導き出されたように存在するのと同じ、あるいは、野に咲く花が「なぜ咲く?」という問いと「だから咲いた」という答えを併せ持って存在しているのと同種のものだ。
 つまりこの舞台は、先に書いた表現は比喩でもなんでもなく、実際にワルツの動きを描いているのである。

 『アルカディア』の中でワルツは特別なものとして登場する。19世紀の貴族の娘で天才的な頭脳を持つ少女トマシナ・カヴァリー(趣里)が、ラストシーンで家庭教師のセプティマス(井上芳雄)にねだって教えてもらい、16歳の最後の夜に踊るのがワルツなのだ。深夜のふたりだけのダンスは、そのあとに何が起きるか知っている観客にとっては胸を締め付けられるシーンだが、それを差し引いても夢のように美しい。クラシックバレエを本格的に学んだ趣里と、数々のミュージカルで踊りの経験を積んでいる井上の好演もあって、客席に座っていても、ふたりの体が描く曲線に巻き込まれる感覚があった。
 そして戯曲そのものも、ずっと三拍子を求めて運動しているのである。同じ屋敷の200年後、現代人で野心家の大学研究員バーナード(堤真一)が、カヴァリー家の末裔であるヴァレンタイン(浦井健治)とクロエ(初音映莉子)達の前で自説を披露している時、屋敷で研究をしている作家のハンナ(寺島しのぶ)に邪魔をされ、「今、どこまで話した?」と問うと、3人が別々の答えを言うそのテンポ! ここで出される3つの回答はおそらくこの戯曲のキーワードであり、3人がそれぞれ何に興味があるのかという個性の違いを出す効果もあるのだが、同じ展開がもう1度あって、それはもうワルツの、ワンツースリー、ワンツースリーを狙っているとしか思えない(私がそう感じ得たのは、小田島の翻訳のなめらかさによるところが大きい)。
 もちろんストーリーの口開けの、セプティマスと詩人チェイター(山中崇)、その夫人の三角関係も、二幕で明確になるセプティマスとトマシナの母(神野三鈴)とバイロン卿の三角関係も、戯曲の中のワルツのステップだ。また、屋敷には数学と物理に長けた娘(科学)とプロの詩人(文学)がいて、そこに庭園の設計士が発明されたばかりの掘削機(工業)を持ち込むのは、19世紀のイギリスを構成した三要素ではないか。
 それ以外にも、物語の核にある物理学の仮説をトレースするように、人物や出来事が配置されている。たとえば「時間を逆戻りさせることは不可能で、無理をすれば混じり合う」というジャムの話とシンクロして、物語が進行するにつれ、2つの時代の物質と人物は混じる度合いを強めていく。あるいは「時間はかかるが、すべての物質は室温に戻る」という説は、200年違いの2つの物語も、宇宙の時間の流れの前ではほとんど重なっているようなものであることを示す。卑近なところでは、間違った説で時の人となったバーナードが、世間から叩かれ、やがてほとぼりが冷めるまでのことも含まれるかもしれない。

 そうしたことを少しずつ考えていくと、この作品を「19世紀と現代」とか「知性と愛欲」といった二項対立に落とし込むのは間違っているという気が強くする。ワルツのリズムに乗せるところまで考えがまとめられていないが、ストッパードはあちこちで“外し”のテクニックを使って、戯曲の世界が小さく閉じることを巧妙に避けているように思うのだ。たとえばヴァレンタインのペットの亀は「稲妻」という名前だけど、動きののろい亀にそんな名前を付けるのも気になるし、亀は長生きだから、もしかしたら19世紀からこの屋敷の庭で生き続けてきたのではないかと思えなくもないし、ヒンドゥー教の、世界を一番下で支えているのは亀だという世界観が意識されているような気もしてならない。
 
 そんなふうに、舞台の運動が次々と立ち上がって見えてくるのは、やはり栗山が戯曲を構造的に読み解けているからに他ならない。今回の舞台で改めて実感したのは、演出家の能力とはすなわち、戯曲全体の設計図を見抜けるセンスだということ。
 1行ずつ原文に当たったり資料を集めたり俳優やスタッフとディスカッションするのは当然の努力、真面目さであって、それも大切ではあるけれど、近寄ったのならそれと同じ時間を、距離を取って引いて見る作業に当ててほしい。特に、ユーモアが流れる戯曲を生真面目に部分的に分析するほど的外れなことはない。日本は往々にして「1行ずつの努力」を尊ぶから、翻訳劇における笑いが虚しい結果になる。構造をつかめれば、演出の緩急がつけられ、せりふのテンポの見当がつき、美術のアイデアも生まれるなど、書かれている内容と離れたところで笑いは生まれるのに。同様に悲しさや美しさも、演出家の相対的な視線から生まれる部分が多いにあるはずだ。

 栗山のすば抜けたその能力から来る演出が、今作ではかなりの打率でヒットしているし、加えてうれしいのが、勘のいい俳優達が栗山がつくった波に身を任せているから──頭で話を理解することは二の次にして、体の余分な力を抜いている。これ、すごく大事なことだ──、柔らかで瑞々しい空気が生まれ続けていること。特に井上、趣里、寺島、浦井は◎。初音は、舞台経験豊富な共演者に囲まれて健闘はしているが、呼吸に難あり。

 ここまで書いた中には、無知ゆえの的外れな当てずっぽうもあるかもしれない。それを確かめたいし、何より、もっともっと『アルカディア』に仕掛けられた謎を解きたいから、もう1度観に行かなければ。戯曲、出版されないかなー。

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徳永京子
演劇ジャーナリスト。著書に『我らに光を』(さいたまゴールド・シアターインタビュー集。河出書房新社)、『演劇最強論』(藤原ちから氏と共著。飛鳥新社)、『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』(ぴあ)。ツイッターはk_tokunaga