はえぎわ『ハエのように舞い 牛は笑う』@東京芸術劇場シアターイースト

 「よくわからない」がチャームになっていたのがここ数年のノゾエ作品だけど、この作品では「得体が知れない」がチャームになった。ナンセンスという意味で「わけがわからない」ではない。覗くと、予想だにしなかった深みが待っていそうな、ちょっと怖いわからなさ。そして、でも見続けていたくなる、覗き込みたくなる、魅力が最後まで途切れない。

日本のはずれの、活火山のある小さな島に暮らす/遊びに来た/帰って来た人々の状況がこまごまと並べられていくだけ。両親が離婚して、母(井内ミワク)と共に島に残った姉(川上友里)と、父(ノゾエ征爾)と一緒に東京で暮らしているが、夏休みの間だけ島に帰ってきている妹(橘花梨)。島の主産業であるゾンビのエキストラ(その島は、ゾンビ映画のロケ地に適していると同時に、必要な人数の島民がエキストラとして出演もする)として生計を立てている男(富川一人)。記憶を自ら捨てているその兄(河合克夫)。島で唯一のボーリング場を経営する女性(笠木泉)と、彼女にスカウトされて旅行客から島民になった男(竹口龍茶)。人と話すのが苦手な自販機補充員(上村聡)などなど、それぞれの事情や人生が、交差するような、しないようなユルい構成は、雑に束ねられた花束のよう。根もとのほうではひとつになっているらしいけど、見えるところは勝手な方を向いているといった感じだ。あるいは、曼荼羅絵の一部を少しずつ観ているような。

そうしたユルさ、雑さが欠点にならずこちらの注意を引き続けるのは、ところどころ出てくるいいせりふ(河合演じる男の忘却に関するせりふと、井内演じる母親の生活から生まれたせりふは特にいい)と、俳優の魅力(この2年ぐらいで、はえぎわの俳優は揃って上手くなった。全員とは言わないけど、こんなに多くの俳優がほとんど同時に上手くなる劇団を、私は他に知らない)が大きい。ただ、それだけなら普通サイズのいい芝居だ。でもノゾエ征爾が無意識に仕掛けたであろう今回の舞台の後味は、物語の後ろに明らかに、何か巨大なものが広がっているというものだ。「善悪」や「幸不幸」などの価値基準とは隔絶した、徹底的に平らかなもの。でもその平等さゆえとても残酷なもの。

この何年かでのはえぎわの評価の急上昇は、世田谷パブリックシアターから依頼された老人ホームを巡回する演劇事業を経験し、ノゾエが得たユニバーサルな感覚が作品に反映されたことが大きい。代表的なアイデアは『ガラパコスパコス』(10年、13年)、『○○トアル風景』(11年)で使われたチョークで、それは黒板状になった壁や床に、物語の進行と共に俳優がチョークで絵や字を描(書)いて行くというものだった。舞台上で語られる場所やモノを具象では見せずに、物語の進行と同時にひとつずつ、絵や文字という形で積み上げる。それはつまり、俳優と観客が同じタイミングでイメージを共有することであり、最後に黒板が消されて何もなくなるのは、舞台の上と観客が一緒に行なう儀式のようだった。

だが今回の『ハエのように舞い 牛は笑う』は、途中まではそうしたいい空気を孕みながら、最後の最後で観客を突き放す。一緒に終わりの儀式を体験させてなどくれない。唐突に血なまぐさいシーンが登場して、ここで終わる人間達の物語とは別に、まったく次元の異なる物語が存在することを示して終わる。そしてこれこそが冒頭でこの物語を「大きい」と書いた理由なのだが、次元の異なる物語は確実に、それまで描かれていた人間の物語とつながっているのだ。理由も感情もなく命が奪われるといった残酷が「ほっこり」とイコールで結ばれている得体の知れなさ。もともと理不尽を軽やかに描くことに長けた人だったが、ノゾエはこの作品でモンスター感を獲得したように思う。スケジュールの都合で1度しか観られなかったのが残念。再演を願う。

8月31日まで。

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