220520

 19日は修了制作の中間審査があった。朝9時からであった。僕の発表は2番目で持ち時間は5分、質疑応答は10分であった。朝8時ごろに起きて割とギリギリに家を出た。近くのパン屋さんでカツサンドを買いチャリに乗ろうとしたところで、同じゼミの友達から起きているかどうかと電話がかかってきた。パンをかじりながら大学へ向かう。

 中間審査は100人入れるようなホールであった。中に入ると広い中に椅子が点在していて学生が座っている。前にはスクリーンと演台があり、それに向き合って4つの机と先生達が並んでいた。私が到着したのは始めの発表者が準備をしているときだった。次の発表者のための椅子に座り、USBにデータをうつした。

 原稿は用意しなかったが、何の困難もなく言葉が出てきた。身体の中で気づかれることなく何かが既に醸成されていて後は身を任せるだけ、そのような状態だった。

 体勢が十分に整っていた、と言えるかもしれない。体勢は気づかれることなく作られており、後は最後の外からの一付きに身体が反応するだけであった。勢い(体勢)に身を任せ、委ねる。その体勢が十分に出来上がること、それが機が熟するということなのだろう。

 もちろん、何らかの外からの呼びかけ、一付きがないと体勢に身を任せるということは起きない。一方、呼びかけられすぎることもあり、その時は体勢が整っておらず、機は熟していない。それが急き立てられているということだろう。

 中間審査が終わり友達と喫茶店でカレーを食べ、コーヒーを飲みながら話していた。その前日、友達は1人でキスを釣りにいき、釣りをしながら考え事をしていたという。その時彼が考えていたことが滝のように言葉となってながれていった。

 彼には、絶対に他の人には何も言われたくない、自分の領域があるらしい。その場所で、自分の表現を追求したいという。僕が「修了制作のプロジェクトのうちでそのような表現の追求をすればいいのではないか」と彼にいうと、彼は「嫌だ」と力強く言い切った。その歯切れの良さにはなんとしてもそこへは踏み入らせないという決意が感じられた。

 閉じられ、秘められた、内密な領域。ヨーロッパ思想の古層には、楽園としての庭という幻想があるという。

「楽園」(パラダイス)という語が、ペルシア語の「囲われた土地」を語源とするように、その地は外敵や侵入者から護られ、安逸と平穏を保障された空間を意味する。(内山勝利編『哲学の歴史2』、12頁)

 ありとあらゆる内密だったものが、ある技術やある媒体によって晒され、またそう誘発され明るみに出される時代、何かのためにとあらゆるものが有用性において判断され狩り立てられる時代、そんな時代にこそ自分だけの「楽園としての庭」を持ち続け、秘められたものとして守り続けることが必要なのだろう。

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