220620

 まとわりつくような京都の湿気。この不快な季節がやってきた。少しの憂鬱は、メランコリックなルグランの音楽をずっと聞いているからだろうか。もはや、大学院で、デザインのことを学ぶ意義は自分にとってないと気づく。不思議と気は重くなく、むしろ晴れ晴れとしている。夏をもって退学しようかとも思うが、なんとか乗り切り修了だけはしようと、そちらのほうに傾いている。とするといかに切り抜けるかが重要である。

 対して興味をもてないことに、あたかも自ら興味をもってやっているかのように自分を欺きながら取り組むことほど苦痛なことはない。ここを離れてどこかに流されるままの自分を無理やり、それこそ意志によって、いまここに縛りつけている窮屈さがある。自らの自然の虐待とでも言えようか。

 興味をもったことにはとことんのめり込み、そうでないことには恐ろしいほどに手が付かないのはASD的な特徴なのだろうか。今日は気付けば16時から26時までほとんど休みもなく『エクリ』を訳出しながら読んでいた。難解であるとは聞いていたが、一筋縄では行かないフランス語だと感じる。とりあえず日本語に移し替えてみて、建築のプランやポスターの文字組みをするようにコネコネして意味が通る文章に構成している。見返すと不自然な日本語であるから、少しずつ整えていきたい。とは言っているが900頁ほどあるうちの20頁しか進んでいない。始めたのいつだっただろうか。記録をみると6月12日であった。まあ及第点だろう。もうすぐ、セミネールの1巻を読み終える。そういえば、レポートのために『知の考古学』も読まねばならぬのだった。

 『症例でわかる精神病理学』において自閉症の生きる時間は「良識=ちゃんとした方向づけ bon sens」が機能しておらず、自閉症者は時間がながれない永遠の今にいると述べられている。しかし、定型発達の人においてbon sensはそんなに上手く機能しているのだろうか。あるパースペクティヴの中に、過去・現在・未来と整然と位置付けることができているのだろうか。

 いまここの私に対して、さまざまな出来事が遠ざかったり、近寄ったり、また私の方もそれに対してうまく距離をとりながら、身をこなすというような動的な状況に投げ入れられているように感じられる。整然と出来事が時間軸の上に並んでいたり、もしくはそのように並べたならばあとは整然と静かに止まっているのではない。

 日付上では後に起こるべき出来事が、それより近い出来事よりも私に対して緊迫してきて、それに対してうまく距離をとらねばならない、そのような必要性に直面することがある。何かがいまここにあり、それを行為、現勢化するには、他のものは隔てられてなければならないし、うまい具合に隔てを作りださねばならない。

 私にとってさしあたり、『エクリ』を読むことが差し迫ってきていて、そのうちに没頭している。私の自然がそうしている。思えば、ご飯も味噌汁と納豆または何かおかず一品と雑になっていた。

 そういえば時間の方向ずけは道具に依存しているよなとも思う。

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