220518

 2日ほど書くのを中断していた。疲れていたからというのもある。しかし同時に書こうという〈したい性〉(綾屋)がまとまりむくむくと立ち上がってこなかったということでもある。

 今日は、明日の中間発表に向けてのスライドを作ろうとかねてから計画していたが、11時に起き昼飯をたべそこからラカンのセミネール1巻を読み始めてしまいったので結局家をでるころには15時ごろになっていた。しばらくラカンを読むことを停止していたのだけど、昨日か一昨日ごろに不意に「読もう」という気分が湧き上がってきたのであった。

 今日は久々に気持ちよく晴れてた。昨日まではこの季節には珍しく肌寒く、夜にはコートが必要なほどだった。空にも雲がかかり、そのような気候のせいか気怠く眠気が酷かった。

 そんなこともありこの青空と夏への前奏曲のような、かといって夏ほどの不快さもない暑さという幸運を逃してはならないと散歩をすると心に決めた。出町柳まで自転車で向かって、そこから北へ向けて高野川を歩くことにした。出町柳に向かう途中、ソフトクリームが目に止まり食べた。甘さと頭を覚ます冷たさを欲していた。甘すぎず牛乳に近い味のソフトクリームで、結構好きだ。

 高野側沿いを、将来どうしよう——つまりどうやって食べていこう——と案じながら歩いていた気がする。最近は新しい正社員とバイトが来て私の勤務時間は激減した。必要な時には駆り出され、必要のない時は(半)失業状態でストックされる——これが非正規労働者か(それは正規労働者にとってもあてはまるのだが)、なんて考えていた。そうなると、安定が求められるのも納得がいく。資本主義め、と言葉にはせず悪態をつく。

 いとことご飯をたべる予定があったため、スライド作りのために私に残された時間は1時間半だった。時間がないのではないのかと心配したが作業はさくさく進んだので拍子抜けした。

 何もしていない時でさえ気づかずに私の内部でスライドの構成が行われていたのだろう。目に見えない微生物が働いて気づいたら漬物がうまれていたように。何か行為が生まれる裏にはそのようなメカニズムがあるのかもしれない。私の内では気づいていないだけで行為は醸成されつつあって、機が熟したらあとはその醸成されたものが身体を動かしてくれる。無意識に作られるプログラムを待って、後はそれに身体を任せるだけ、そうも言えるかもしれない。

 一昨日だっただろうか、フライヤーをIndesignで作っていたがどうしてもしっくりこなかった。色と配置に気持ち悪さを、どこかずれている感じがしたのだ。結局、それを放っておいて一晩か二晩たち、再び制作に取り掛かることになったときには何かしっくりくるものができたのだった。おそらく、気持ち悪さがあるままもがいていても正解は見つかることがなかっただろう。醸成されるのを待ち、機が熟すのを待つその勇気が必要なのかもしれない。待ったら後は身体を任せるのみ。

 昨日は「自主ゼミ」という名の学生だけのゼミだった。それぞれが気になった論文を読んできて発表するという催しだった。発表を聞いて、そのとき——そのときどころではなく以前から思っており、最近ますます感じることだが——世界の複雑さに、そして速さについていけない、と思った。特に「デジタルテクノロジー」というものに関して。 

 ゼミの先輩ははっとさせる視点を与えてくれる。わからないことが現れても「まあいっか」と済ませているが、最近それがあんまりよくないと妹と話していた、と彼女は言う。彼女曰く、言語の環境が変化することが多く、言われていることがわからないという経験が多かったことに由来するらしい。

 僕はそのまあいいかとひとまず済ませておくことが大事な気がした。僕はいつも知らないことに出会うたびに「知っておかねばならない」という脅迫観念に縛られていた気がした。加えて、こんなにも複雑な世界を把握できるというおこがましさがあったことに気づいたのだった。情報が溢れたこの世で溺れないためには、諦めも不可欠なのだろう。もちろん、はなから自らを閉じてしまってはいけないのだが。

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