220619

 何がしたいか、意図は何なのかと問われることに違和感をずっと感じていた。特に、建築やデザインを学び、少なからず制作をしているとそのように問われる機会に遭遇する。

 それはまさに尋問する言語である。何かを制作することにおいて、常に、説明可能性を求められ、制作を意志によって支配することを強いられている。そこでゲニウスが働いていることを否認することを強いられている。

 友人が、制作は周りから隔絶された閉じられた——私はそれを以前に庭と例えた——空間でなされなければならないという。それはおそらく、説明を求められる空間から、我々が意志によってゲニウスを支配するよう強いられている空間からの引きこもりが必要であるということだろう。強く同感する。ゲニウスを自然と言い換えることができるだろう。我々の自然は、息をするように何かしらを生み出し、行為し、制作している。

 そうとなると、何らかの「作品」において見てとられるべきは、その有用性や作者の卓越性ではなく、自然がただ蠢いているその痕跡だろう。作品は自然の痕跡である。

 私の書道の師匠に、どのように作品が作り出されているのか聞いたことがある。彼女が言うには、まず、ある言葉のその奥を捉えるそうだ。言葉の自然、言葉の生命感とも言おうか。それから、その言葉の奥にあるものを、言葉が含みつつもそこには現れないものを言葉、書をもって表す、という。

 私のフランス語の師であり人生の師は、翻訳とは言語やイメージを別の言語にうつすことではなく、作品の生命感を読者に伝える営みであるという。

 ここには、ある人の自然と別なものの自然が交流し、それがその人をとおして何かを媒介として何かを生み出させる、そのようなプロセスがあるように思われる。そうとすると、制作に大事なことは、このようにしようという意志を強め、自然に対するコントロールを強めることではなく、自然が動き語るままに、そのコントロールを解いていくことだろう。「それ」が語るままにさせる、とも言えるだろうか。

 こう書きながら、私は私の自然を支配しようとしているのだろうか。それとも、自然が動くままにさせることができるのであろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?