210515

 15時まで寝て炊飯器に茶碗半分くらい残っていた米と蕪とえのきと水菜の入った赤だしの味噌汁を食べる。その後部屋の掃除機をかけて本棚の埃を払う。

 休息をとるときは部屋を片付けるのが習慣である。部屋は自分の身体の一部である。部屋を片付けると自己に引きこもって内部で身体の調整をしている気分だ。片付け——日々の狂いや不調を調律してリズムを取り戻す行い。

 片付けを終え16時半ごろに近くの喫茶店に行った。パウンドケーキとコーヒーのセットで500円と安く、長い時間滞在できるので僕はその喫茶店を重宝している。ジェームス・ブラウンの Get Up が繰り返しながれていた。私はオートエスノグラフィーについての本を読んでいたのだが、「ゲロッパ」というきれのいいジェームスの声はいくらか読書を邪魔してくる。自分の部屋にいるとその時の自分の状態に合わせて音楽をかけられるのでその快適さを痛感した。

 店の奥からは習いたてであろう若い男の話すフランス語が聞こえてくる。フランス語の練習をしていたようだ。どこかから「超越」という言葉も聞こえてきて耳に止まった。大学生が何か哲学のテクストを読んで議論しているようだった。興味をそそられたがあまりよく聞こえなかった。私はたびたび外を通りかかる人を眺めていた。大学生の行列が過ぎて行った。

 長髪の40代くらいの男が店に入ってきて大きな声ですみませんと店員を読んでいる。ここでは店長の女性とバイト1人で店を回していていて忙しそうなので大抵呼んでもすぐにでてこないから待つしかないよな、なんて考える。

 彼はオムライスにハムが入っているかどうかと若い店員に聞く。ハムは入っていないようだ。「味の素は?」と男は聞く。面倒くさそうな客だなと、店員の身になって思う。しかし彼女は親切に対応して「健康に気をつかっているんですね」といったような返答をしていた。結局、男は店を出て行った。

 本を読むがあまり集中できない。というのもこういうことについて書こうという発想がでてきてそれについて考えてしまうからだ。 

 今朝は(二度寝する前)、note で ASD や ADHD の当事者が書いた記事を眺めていた。私は自分のことをASDだと思い、よくASDの特徴や困難としてあげられるものに合致するのだが、それを医療モデルの障害として扱うことへの反発、そうとして自らを同定しアイデンティティを同定することで何か抜け落ちることがあるような感じがして診断をうけたわけではない。

 ある同年代のASD当事者が「暗黙の了解」について書いていた。私には異邦人として生きている感じがずっとある。他の人間が自明のこととして了解していることが自分にとっては全く自明ではなく、あたかもそれが当たり前のように他人に言われて「そうだったのか」と驚かされることが多々ある。

 特にある人の雰囲気や感情や気持ちに関して。不思議なことにある人と自分が同じ人を見ていても、その人は雰囲気や感情や気持ちを読み取っていて、私はそうではないという事態がよく訪れる。どういうことだろうか。

 暫定的に、それは何にめくばりをしているかという文化の違いによるのだと思っている。同じものをみていても何にめくばりをしているかで読み取るものは当然違う。例えば、ある銅版画家はものを見るときにそれがどのような色で構成されていて、どのように銅版において再構成されるかという視点で見ていると言っていた。

 ある人たちは人間を見るときにその様子、感情、気分、雰囲気に優先的にめくばりする文化に属していて、おそらくそれが多数派なのだろう。おそらく私は人間を見るときにその様子、感情、気分、雰囲気に優先的にめくばりしていない文化に属している、(そしてこのような人々がASDと呼ばれているのではないか)と考えることができるだろう。

 しかし、そのように欠如的に規定することで何かが見落とされていないだろうか。そこでは、何に優先的にめくばりしているか、が言われていない。また、「様子、感情、気分、雰囲気に優先的にめくばりする文化に属している人々」もそのようなめくばりを優先することで何か他のものへの目配りを欠いていて見落としているはずである。

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