220514-2

 そういえば今日の書道教室で先生が手本として褚遂良の臨書をした。僕はその姿に観入って、そのとき自分の中で何かが作動した。そこから書き方が変わった気がした。何とは言い難いが先生の動きから何かを読み取り、それが伝染した。先ほど字の「生命感」の話をしたが、同様に生命感が伝染したと言えるかもしれない。身体的なできごとであった。かつてピアノを習っていたときに先生が手本として弾いたことで私の中で何かが閃きそれまでと弾く体験が変わったことが蘇る。何かを習うことの重要さはその伝染にあるのかもしれない。またピアノを習いたいものだ。

 食事——僕にとってそれは自分の調整のための薬(ある時は毒)である。僕は自分の料理が好きだ。高級レストランででる料理でも、特別美味なものでもないだろうが、自分の身体にもっともあっている。無論、その時の自分の身体に合わせてつくるから当たり前ではあるが。

 おおよそ野菜を多くとる。いつもスーパーで目に止まった野菜を適当に買う。肉や納豆、豆腐などと合わせて一回で3,000円くらいの買い物をする。毎度、買ってきた野菜の中から二種類くらいを選んで、母親が送ってくれた出汁パックで出汁をとり白味噌の味噌汁を作る。以前は鰹節で出汁をとっていたが、出汁パックが案外美味しいことを知りそれ以来愛用している。

 あとは大抵納豆と白いご飯を食べる。質素だがそれが身体によくあっているのだ。外食が続くと疲れと身体のリズムが崩れてくるのを感じる。野菜をとるのが少ないと逆剥けがでてきたりする。そういうときに必要としているのが自分のご飯だ。

 今日は肉が必要な気分だったので、冷凍していた鳥の胸肉を解凍して鉄フライパンでじっくりと焼いて一枚丸々食べた。最近は肉が不足していたような気がする。普段は納豆や豆腐でタンパク質を取るのがほとんどだが、疲れが溜まると特にガッツリと肉を食べたくなることがある。

 退屈について。退屈している時はソワソワしている。時が告げられるのを待つあまりに、時を告げるものではないものを、時を告げるものとして取り違え続けている。例えば、好きな人からのラインの返信を待ちながら、意味もないのにスマホを開くように。ダラダラとスマホを眺めていてもそのことは時を告げず間をつくりださない。一方、待ち望んでいた返信がくるとそれは時を告げて間を作り出す。退屈な授業で時計を気にしても時計を見る瞬間の針は授業の終わりを告げてはいない。それにも関わらずあたかももう終わりなのではないかと取り違えてちらちら見てしまう。

 

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