220617
3週間ほど書かなかったことになる。この空白を、沈黙をなんと言ってよいだろう。この時間にどのような意味を与えるべきなのだろうか。
何かどうしようもない倦怠があったような気がする。4月に復学し、当初は新たに学ぶことが新鮮に感じられ心が躍らされスポンジのようにそれを吸収し、また吸収しようとしていた。それがプツンと切れたような気がする。
この3週間は人には会っていたものの、精神的には引きこもり内向していた。いったい何をしていたのだろうか。現象学について本を漁り、現象学とは何か学んでいたのは覚えている。生きられた経験の記述について調べる必要があったはずだ。後は当事者研究の基礎づけと。
しかし、それだけに多大な時間と労力を費やしていたわけではなかった。むしろ片手間だった気がする。最近は何をしているのだろう。飽き飽きするような反復に愚痴をこぼしつつも、どこか楽しんで家事をしていた記憶はある。暇さえあれば京都の街を歩いていた。歩くことに目的があるわけではなく、散歩の間はどこか別な空間にただ1人いるようであった。夜中に近くの疏水を歩いているときに、一体いつから歩いているのか始まりがわからなくなり、始まりもなく終わりもなく、それまでずっと歩き彷徨っていたような不思議な感覚があった。
何日か前にはラカンの『エクリ』を私訳し始めた。これは毎日繰り返している。そうしていると、どうしようもない退屈や不安が紛れて平穏が訪れる。800頁ほどあるので5年くらいかけて読めれば良いと考えてる。授業でフーコーの著作の中から何かひとつを読まねばいけなくなり、何年前に買ったものの語学の力が及ばずに本棚の飾りとなっていた『知の考古学』を取り出した。ジュンク堂で日本語訳も書い読み進めている。とてつもない快楽があるわけではないが、没頭できる。ハイデガーについても相変わらず勉強しているのであった。
高校生の時に国語の授業で梶井基次郎の『檸檬』を読んだ。その退廃的な雰囲気、気だるさ、そして檸檬の酸っぱく鼻をさす香りが記憶に強く刻まれている。『檸檬』を開いてみると一文目には「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけていた」とある。これだと思った。ハイデガーのいう退屈の第三形式にも近いかもしれない。なんとなく退屈だという。この内向の期間の間、四六時中なんとなく退屈だという声を聞いていた気がする。この退屈というか不吉な塊が、どのようにしても取り除かれず、何ものでも埋められないのだろうと思うとなおさら気が重い。最近は、神の沈黙を主題にした映画をみたり、遠藤周作の『沈黙』が好きな友達とそれについて話すことがあった。神の沈黙を聞いている——沈黙を聞くとは奇妙な気がするが——人もこのような気分なのではないかと、想像していた。
修了のためには制作を行わなければならないのだが、大してやる気がない。バイトでテーブルの準備をしていると「デザインしているんでしょ、美しくやらないと」いわれたのだが、その時に私は自分自身をデザインしているものや、デザインを学んでいるものとして同定していないことに気がついた。そういえば、大学院の入学試験の時にも、面接で「卒業後はデザイナーになるんですか?」と聞かれて、答えに窮したのを覚えている。私の場合、学ぶことにこれといった目的はない気がする。何らかの探究ではあるのだろうが。
というわけで、「大したやる気がないのに制作しなければならない」という「意地悪な問題」に対して、制作を通して答えを与えなければならないという厄介な事態に直面している。修了したいのかどうか、と言われてもどちらでもいい気がする。『異邦人』の主人公のどうでもよさがわかる気がしている。
いっそ、神でも仏でも宇宙でもなんでもいいから他力に委ねてしまおうかと思っているし、それが制作の上で大事な態度のようにも思っている。私が意志をもって何かを産み出すのではなく、私の呼びかけに応えて、何かが私通して作品を生み出すのだと。それで修了できようができまいが、どちらにせよ何かによって決められた運命なのだろう。そう考えると楽である。呼びかけることと待つこと。
一昨日、私は結局レストランのサービスには向いていないということがわかった。それは薄々気づいてはいたのだが、それを受け入れるとなぜだかほっとした。小さな頃から、人がどう考えているのか、また人に自分がどう見られているか考えなさいとよく叱られたきた。それが当然のこととしていわれるが、私にはどうしたらそうできるのかさっぱりわからなかった。その問題はレストランのサービスにおいても障害として現れていた。レストランでは客の志向やまた他の同僚の志向を見て取らなければならないし、客の視点に——あたかも自分の身体がそこにあるように——立たなければならないからだ。
私のインペアメントが何かというならば、それは他者の身体に自分の身体を代入することの難しさにあると言えるだろう。間身体性の問題とも言えるのだろうか。何か人の感情が読み取られるとき、私にとって、その人は自分よりも傘のかかった月に近い気がする。傘のかかった月が翌日の雨を指し示すように、その人の表情が怒りを表す。そうして印として読み取ることによって感情を推測するより他はない。大多数の人は、その人にとって他者はまずその人と同じ身体をもつものとして直感的に捉えられており、自分はその点において違っている気がするのだ。
そのため、誰かが何かしようとしているとき、その瞬間の行為の次には何がなされるかという連関があらかじめ作られていないと、その人の志向を推測することに困難を感じる。そのため、仕事のとき同僚がある行為の最中でも、私にとって連関が作られていないと、私はその人が何をしようとしてるかわからず、止まったままで眺めやってどういうことなのかあれこれ考えるという、そんな状況に置かれることが多い。この連関に強く依存しているために、臨機応変な対応というのが私にとって難しいのだと思う。多くの人は自分自身をその人の身体に代入することがうまくできるために、その連関に強く依存せずともその人の行おうとしていることがわかるのではないだろうか。そう仮定すると、昔、サッカーやバレーボールをしているときに感じていたうまくいかなさがどこにあったかわかるような気がする。
他者の身体への自分の身体へ代入すること、そこに困難があるからこそ私にとって言葉がなくてはならないものだったのだろう。小さな頃、「言われなくても人が何をしようとしているか考えなさい」などと親に怒られたものだが、私は文字通り言われないとわからなかった。言葉は私にとって視力の悪いひとの眼鏡、足の悪い人の杖のようなものであったのだろう。ある行為が次にどんな行為を指示するかという連関も言葉に相当するものだろう。
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