220704

 「おのれを殺す、これはある意味で、そしてメロドラマでよくあることだが、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。(中略)そう、おのれを殺すとは《苦労するまでもない》と告白すること、ただそれだけのことにすぎない。」(カミュ、16頁)

「ひとは、この世に生存しているということから要求されてくるいろいろな行為を、多くの理由からやりつづけているが、その理由の第一は習慣というものである。みずからを意志して死ぬとは、この習慣というもののじつにつまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、日々の変動のばかげた性質を、そして苦しみの無益を、たとえ本能的にせよ、認めたということを前提としている。」(カミュ、16頁)

「幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分を異邦人と感じる。この追放は、失った祖国の思い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じとる、これがまさに、不条理性の感覚である。」(カミュ、16-17頁)

「死をまえにして体をかわす、——これがこの試論の第三の主題をなすのだが——それは希望ということである。」(カミュ、20頁)

「これまで言葉だけをしかるべくあやつって、人生の意義を拒むことは、人生は生きるに値しないと宣言することに必然的に到るのだと思うふりをしてきたのは、むだではなかった。じつは、このふたつの判断のあいだには、否応なしに両者を結びつけなければならなくなるような尺度などすこしもないのだ。」(カミュ、20-21頁)

「生存の不条理性は、ひとが希望あるいは自殺によってそこから逃れることを要請するものなのか。」(カミュ、21頁)

「もしこの答えが〔何を考えているのかとたずねられたときの「何も」という答え〕心からなされたものであれば、もしこの答えが、魂のあの独特な状態、空虚が雄弁となり、日常の動作の連鎖が断たれ、その切れた鎖をつなぐ輪を心がむなしく探しているような、魂のあの独特な状態を表しているのであれば、そのとき、答えはいわば不条理の最初の徴なのである。」(カミュ、27-28頁)

不条理を含む感情の列挙

「明日」とか「あとで」などと言って未来をあてにして生きており、「明日になれば」と明日を願っていたが、現実には全存在が明日になるということを拒んでいた。このような肉体の犯行。

かなたに連なる丘、空の優しさ、樹々のたたずまいなどが、我々によって着せかけられていたむなしい意味をうしに、世界の厚みと奇怪さだけがある。もはや世界がわからなくなってしまう。

人間自体にある非人間性をまえにしたときの不快感、嘔吐感。

写真の中の見慣れてはいるが不安をかきたてる兄弟。

「死というこの宿命の破滅的な証明を浴びると、無益という感情があらわれる。」(カミュ、32-33頁)

つまり、不条理の感情が生まれるのは、自明性に綻びが生まれるとき。慣れ親しみ、家であったものが、もはや失われてしまい戻ることができないという家郷の喪失が現れるとき。

「不条理性は、それと認知されたその瞬間から、ひとつの熱情を化する。あらゆる情念のうちもっとも激しく心を引き裂く情念と化する。だが、ひとははたして、熱情をいだきながら生きることができるか、心を昂揚させると同時に、他方では心を焼きほろぼすものであるという熱情の法則を、ひとははたして受け入れることができるのか、これを知ることがまさしく問題だ。」(カミュ、44頁)

「不条理性の感情はある事実またはある印象の単純な検討から生じるのではなく、事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくるのだと言ってもいいわけだ。」(カミュ、57頁)

「不条理とは、自己の限界を確認している明晰な理性のことだ。」(カミュ、87頁)

「ぼくの論証は、それを目覚めさせた明証的事実にあくまで忠実でありたいと願っている。その明証的事実とは不条理のことだ。欲望する精神とそれを裏切る世界とのあいだのあの背反状態、ぼくのいだく統一性への郷愁、あの四散した宇宙そして、それら四散した断片をつなぎ結ぶ矛盾のことだ。キルケゴールはぼくの郷愁を抹殺し、フッサールは四散した宇宙をもとの形に集め直す。だが、ぼくの期待していたのはそれではない。こういう分裂とともに生き、ともに思考すること、受容すべきか拒絶すべきか知ることだった。」(カミュ、89頁)

「方法についてもう一度念を押しておこう。頑強であるということだ。自分の道を進んである地点までくると、不条理な人間は扇動される。歴史にはいろいろな宗教や予言者たちがいる、いや神のない宗教や予言者にもこと欠かない。そこでかれは飛躍を命じられる。かれに可能な返答は、自分にはよくわからない、それは明々白々たることではない、ただこれだけだ。かれはただ自分によくわかることしかやろうと思わないのだ。するとかれは、それは傲慢の罪だという断言を聞かされる、しかしかれには罪という観念が何のことだかわからない。おまえはたぶん地獄行きだと言われても、地獄というこの奇怪な未来を自分の眼科に描きだすほどの想像力はかれにはない。永生を失うぞといわれても、永生などかれにはくだらぬものにしか思えない。相手はかれの有罪を認めさせようと躍起になるが、かれのほうでは自分は無罪だと感じている。そう、かれはただそれしか感じない、一点非の打ちどころのない無罪性しか感じていない。いささかも罪を犯していないから、かれにはすべてが許されている。こうして、かれが自分に要求するのは自分の知っていることだけで生きること、存在するものに満足し、確実ならざるものはなにひとつ介入させぬことである。すると、確実なものなどなにもないという返答を聞かされる。だが、すくなくともそのこと、確実なものなどなにもないということ、それは確実だ。かれと関係するのはこの確実性だ。つまり、上訴の可能性なしに、これっきりのものとして生きることがはたして可能か、かれはそれを知りたがっているのである。

いまやぼくは自殺の観念に接近することができよう。自殺という問題にどのような解決があたえられうるか、読者はすでに感じとられたことだろう。その点、問題は逆転されている。以前は、人生を生きるためには人生に意義がなければならぬのか、それを知ることが問題だった。ところがここでは反対に、人生は意義がなければないだけ、それだけよりいっそうよく生きられるだろうと思えるのである。ひとつの経験を、ひとつの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ。」(カミュ、94-95頁)

「この不条理は対立を糧とするものであり、対立の一方の項を否定することは、不条理から逃げだすことだ。意識的反抗を廃棄することは、問題を回避することだ。永久革命の主題がこうして個人の経験内に転位されることになる。生きるとは不条理を生かすことだ。不条理を生かすとは、なによりもまず不条理を見つめることだ。」(カミュ、96頁)

「不条理は、死を意識しつつ同時に死を拒否することだというかぎりにおいて、自殺のてから逃れ出てしまうのだ。死刑囚の脳裏をよぎる最後の思考がぎりぎりの極限点に到り、めくるめく死への転落がいまにも起ころうとするまさにその直前の地点で、しかもなおかれが数メートル前方に眼にする靴紐、不条理とはそれだ、自殺者の正反対のもの、まさしくそれが死刑囚である。」(カミュ、97頁)

「意識的でありつづけ、反抗をつらぬく——こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で熱情的なもののすべてが、拒否をかきたて人生に立ち向かわせうるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のこと、なぜならこのように日々意識的でありつづけ、反抗をつらぬくことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。」(カミュ、98頁)

「人間が自由であるかどうかを知る、そんなことはぼくの関心を惹かない。ぼくはただ、ぼく自身の自由を感じとることができるだけだ。」(カミュ、99頁)

「不条理に出会う以前は、日常的人間はさまざまな目的をいだきながら、また未来をきにしたり、自己正当化の心を配ったりして生きている(だれに対し、あるいはなにに対して自己を正当化するのかは、この場合どうでもいい)。かれは自分のチャンスの見積りをし、恩給とか息子たちの働きとかをあてにして、晩年にはらくができると考えている。生きているうちには、なにか運が向いてくることもあろうかと、まだ思っている。実は、かれはまるで自分が自由であるかのように——たとえあらゆる事実がよってたかってこの自由を否定しにかかっても——振る舞っているのだ。ところが、不条理に出会ったあとは、いっさいが根底から揺り動かされる。《自分は存在する》というこの観念、まるであらうるものに意味があるように振る舞っている自分の生き方(ときに、なにものにも意味はないと口にすることがあったが)——そうしたいっさいが、いつ死ぬかわからないという不条理性によって、眼もくらむばかりに激しく否認されてしまうのだ。明日を想う、ある目的を定める、なにかをとくに好む、こうしたいっさいは、——たとえ当人が、自由を感じることなどいささかもないと、ときに確信していようと——やはり自由への信仰を前提としている。だがひとがひとたび不条理と出会ったあとは、こうした高次な自由、なにかを真実だとすることの基礎となりうる唯一のものであるこの存在することの自由、それはもうないということを、ぼくははっきりと知っている。そこでは死がいわば唯一の現実なのだ。」(カミュ、100-101頁)

「不条理な人間は、自分はこれまで自由という公準に縛られ、そうした公準の幻の上で生きていたのだということを理解する。ある意味では、これがかれを束縛していたのだ。自分の人生になにかひとつの目的を想い描いているかぎり、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。」(カミュ、102頁)

「明日というものはない、——不条理はこのことをぼくにはっきりと照らしだしてくれる。以後ここに、ぼくの深い自由の根拠があるのだ。」(カミュ、103頁)

「底知れぬこの確実性のなかにかぎりなく身を沈めること、これ以後は自分自身の人生に対してまったくの異邦人となって自分の人生を育んでゆき、恋人を見るときのような近視眼は棄てて自分の人生を眺めわたすこと、ここに解放の原理がある。」(カミュ、105頁)

このような世界における生とはなにを意味するだろうか。さしあたっては、未来に対する無関心と、あたえられたいっさいを汲みつくそうとする熱情以外のなにものも意味しないと言っておこう。」(カミュ、106頁)

「重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだと。」(カミュ、107頁)

「自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。」(カミュ、110頁)

「人生に意義をあたえてくれるような神はきっと存在するという確実性のほうが、やりそこなっても罰せられないですむ力より、はるかに人を惹きつけるものだ。だから、この両者のどちらかを選ぶとなれば、選択はむずかしくはないだろう。だが、じつは選択はないのであり、このとき苦悩がはじまる。不条理は人を解放しない、ひとを束縛するのである。それはあらゆる行為を許可するわけではない。いっさいは許されているとは、なにひとつ禁じられていないという意味ではない。不条理は、ただ、これらのどの行為の結果も等価値だとするだけである。不条理は犯罪を勧めたりはしない——そんなふうに考えるのは幼稚な考え方だ——、不条理は悔恨などもともと無用なことだとしてしまうのだ。同様に、あらゆる経験が無差別なものならば、義務に発する経験も、他のなにか任意の経験も、正当さという点では等しくなくなる。気まぐれから美徳のひとたることができるのだ。」(カミュ、120頁)

「意識的な姿勢で人生を生きれば、経験はそのひとの役にたつのだ。意識的な姿勢でいきなければ、経験などなんの意味もない。」(カミュ、122頁)

「人間を働かせたり忙しく動きまわらせたりするものは、すべて、希望を利用してそうさせている。だから、ひとを欺かぬ思想とは不毛な思想だけだ。不条理な現実世界においては、ある観念なりある人生なりの価値は、その不毛性において測られるのである。」(カミュ、122-123頁)

「記述する、これが不条理な思考の最後の野望である。」(カミュ、168頁)

「芸術作品はそれ自体不条理な現象であり、重要なのは芸術作品における記述、ただそれだけだ。芸術作品は精神の病に、ただのひとつも出口を提供しない。それどころか反対に、それは精神の病の徴候、——ひとりの人間の思考全体のなかに、その精神の病を反響させてゆくような一徴候なのである。」(カミュ、169頁)

芸術作品は、知力が具体的なものの理性的検討を放棄するところから生まれるものだ。それは肉体的なものの勝利を示す。芸術作品の誕生を触発するものは明晰な思考であるが、この行為そのものにおいて、明晰な思考は自己を放棄するのである。明晰な思考は、記述されたものを見て、そこにいっそう深い意味をさらに付け加えたいと思っても、その深い意味が正当ならざるものだと知っているかぎりは、その誘惑に負けないであろう。芸術作品は知力のドラマを具象化している。しかしその証明は間接的にしか行わない。不条理な左右品が生まれるためには、こうした限界をみずからが意識している芸術家と、具体的なものに、それ自体以上のなにものも意味させない技術が必要である。不条理な作品はひとりの人生の目的や意義や慰謝ではありえない。創造しようとしまいと、なにも変わりはしないのだ。不条理な創造者は自分の作品に執着しない。いや、自分の作品を放棄することだってできるだろう。」(カミュ、172-173頁)

「《なにもののためでもなく》仕事をし、創造をする粘土に彫る、自分の創造には未来がないということを知る、自分の作品が一日のうちに壊されるのを眺め、しかも他方では、それも、数世紀もののあいだ永持ちすることを予定して建築をすることも、どちらも本質的にはたいして重要ではないと意識している、——これこそが、不条理な思考がよしとする辛い叡智である。一方では否定し他方では賞揚するというふたつの作業を同時に行う。これが不条理な創造者に開かれている道だ。かれは虚空に色を塗らねばならぬ。」(カミュ、200-201頁)

「創造はまた、人間の唯一の尊厳——すなわち、自己の在り方に対して執拗な反応を試み、努力が不毛だとわかっていながら、なお辛抱づよく努力をつづけるという姿勢——の、驚くべき証言である。それは、日々の努力、自己統御、真なるものの正確な測定、節度、そして力を要求する。それはそのまま苦行にほかならぬ。こうしたすべてが、《なにもののためでもなく》、ただ反復し、足踏みをするためになされるのだ。」(カミュ、202-203頁)

「このようにぼくは、思考に対して要請していたもの、反抗と自由と多様性とを、不条理な想像にも求める。不条理な創造は、つづいて、その深い無用性を示すものでなければならぬ。」(カミュ、205頁)

「創造者であれ征服者であれ、これらのたがいに近しい精神たちは、自分の企図からもまた自己を解放することができるように、最後の努力をふりしぼらなければならない。すなわち、制服であれ愛であれ創造であれ、そうした営みはそれ自体がなくれもいいものだと認める境地に到りつかねばならぬ。そうやって、個人の生はいかなるものであれ、本質的には無用なものだという自覚を完成させねばならぬ。こうなってこそ、かれらは、いっそうのびのびとした態度で、この営みを実現することができるのだ、ちょうど、人生の不条理に気がついたことで、かれらがあらゆる過剰とともに人生に跳びこむことができたように。」(カミュ、206頁)

Un acte gratuit est le fait d'agir en dehors de toute raison, motivation et/ou incitation1. Cela peut apparaître comme la volonté de prouver sa liberté, de se montrer à soi-même que rien ne peut l'entraver. Dans ce cas-là, le motif de l'acte peut apparaître comme l'absence de motif. (https://fr.wikipedia.org/wiki/Acte_gratuit)

目的を探し始めると顕になる目的の不在。無さ。

自然を駆り立てることなく、それの働くままにさせること。ただし、何かしらの「作品」を残すという条件を満たすために、それが働いた痕跡を残すこと。

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳、新潮文庫、2020年

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