経済学と貨幣

マルクス経済学(宇野派)の財政学(つまり発展段階論的福祉国家論)と現代貨幣理論の融合を図りたいとする岡本英男の研究についてメモしておこうと思う。今年の前半は新型コロナ感染やそれに伴う激しめの体調不良で低調オブ低調だったので、ノート描く気力なかった。いまは、遅れた仕事に圧殺されそうだけど、気力が回復してきたんだと思う。
岡本の理解はこう。純粋資本主義の理論(原論とか原理論とかいう)には国家がない。国家の登場は純粋資本主義が不純化していく過程として捉えられる。重商主義・自由主義・帝国主義という発展段階論からはそう見えるんだけど、実は国家がなかったことなんてないんですけどね。それはさておき、帝国主義の後をどう説明するのかというのは、段階論・現状分析の仕事で、それを財政学が担ってきたという構造。ここのスーパースターが大内兵衛で、後期帝国主義段階では国家独占資本主義になっていくんだ、ということになる。つまり、国家の権力的側面と独占的な金融資本が搾取率を高めていくように作用すると。
それに対して、大内兵衛の弟子である(弟子でいいんだよね?)林健久(と同じく大内兵衛の弟子の佐藤進も近しいけれど)とその盟友の加藤榮一は、搾取に対抗する国家として福祉国家論を展開するわけ。再分配とか完全雇用をミッションとして独占資本に対抗する国家。ケインジアン福祉国家の宇野派的理解よね。ただ、この福祉国家はグローバル資本主義に押されて退潮していく。正確には維持したり、退潮したり、進んだり、質的に変わったりするので、変容するとか、分岐するって言葉が好まれる。そこでエスピンアンデルセンとかを使うわけですよ。
いずれにしても、金融資本よりも強力になったグローバル資本に国家が挑んで、勝ったり負けたりするってストーリーで描かれるわけ。加藤榮一を師と仰ぐのが岡本英男で、本当は東北大で吉田震太郎に師事したはずなんだけど(池上岳彦と同門じゃないのかなぁ)、加藤を媒介して宇野派国家論の中心になっていった。だから、シェーマとしては、福祉国家はグローバル資本に敗北するのか?それとも対抗できるのか?となる。だから、「福祉国家の可能性」を模索したい。岡本が同じく敬愛する柴田徳衛の師匠であるヴィックリーの完全雇用論が大好きらしく、とにかく腹一杯食べられるような雇用と、失業しても48時間以内に次の仕事が見つかるような社会を目指すのだと。まぁ、こういう言い方って非常にアメリカ的で、失業率が低かったり、そのかわり日雇や非正規が多い日本には当てはまらない社会問題への眼差しだと思いますけどね。
で、この完全雇用を実現するって文脈からmmtというか、jgpに関心を向けるわけですよ。でもその体系は新古典派総合(ニューケインジアンを含む)とマルクス経済学・宇野理論との差異よりも大きいわけ。貨幣観の違いって経済学においてかなり大事だとは思うのね。このノート書こうと思ったのも、岡本英男が内生的貨幣の貨幣観を受け入れないままmmtをつまみ食いするもんだから、ヴィックリーやラーナーと容易にmmtを結びつけるもんで、理論的にはおかしなことになっているし、現状理解やオルタナティブについてパッチワークになっているというのが、気になって気になって仕方がないから。神野・金子(債務管理型国家論)や井堀・土居、伊藤隆敏・吉川洋、小林慶一郎、小黒一正(そして多分佐藤主光も)に連なる貨幣観、つまり国債発行は家計貯蓄を借りてきているので枯渇するとやばい(インフレになって財政破綻する)という議論が全て間違っている、と言いたいのは良くわかるし、まぁ全て間違っているとは思うんですがね。のわりに、有効需要でインフレ説明しようとするのはおかしいわけですよ。で、そのおかしさの根源ってのが内生的貨幣観を受け入れていないことにあるんだと思うわけですね。
そこで、紙幅と時間が限られているのでごく簡単に経済学の貨幣観を整理すると、新古典派の貨幣観は貨幣というものは単なる擬制に過ぎないというもの。交換比率こそが本質なのであって、貨幣はそれを媒介するものでしかない、貨幣ベールでしかない、と。だから、名目ではなく実質だけで理論を展開できるリアルビジネスサイクルが一般均衡理論の基礎で、動学にしたところでそれは同じなわけ。でもそうすると少し齟齬が出てくるのが、貯蓄って概念なんですよ。貨幣なんて擬制だ!って言っているわけだから、貯蓄なんて有り得ないわけなんですよ。だから、しばしば貯蓄ってムギに例えられるわけですね。ムギならば、今日パンにして食べることもできるし、明日パンにして食べることもできる。ですので、父というか貯蔵というか、マクロでいうところの在庫なんですよね。こういう考えをベースとしてリカード・バローの中立命題が成り立つわけですよ。来年一月一日に年貢を徴収されるならば、今年はお米を食べる量を減らして貯めておかないとダメでしょってことね。
だから、貨幣で貯蓄できてしまう現実の経済とは齟齬が生まれてしまう。社会の生産力ってのを一定で考えれば、今年消費を減らせば単に不景気になり、来季に消費増やすったって供給制約にぶつかるだけじゃん!ってなる。一応補足しておくと、今期の生産力と来季の生産力の違いは労働力を一定とすれば(そして短期的にはそんなに劇的に変化するわけではない)、投資→資本蓄積による。今期の生産力を消費に振り分けるのか、投資に振り分けるのかで、消費は効用→社会厚生を引き上げるけれど、投資は引き上げないとすると(現実には対して社会厚生を引き上げない消費もあるし、学びや仕事を通じて人間は尊厳を得ることを考えれば(神野直彦大好きマズローの欲求段階説)この仮定もそうとうあれなんだけど)、今期の消費と来期の消費がトレードオフになるってことは言えなくもないんだけどね。でもその議論には貯蓄は出てこない、というか貯蓄イコール投資のISバランス論なわけですよね。まぁそれはいい。新古典派経済学ってのはこんな構成になっているわけ。
じゃ、マルクス経済学はっ?てーと、古典派・歴史学派の系列なんで、貨幣ってのは希少なもの、つまり貴金属なんだって実態を与えて議論するわけですよ。だから、貴金属をたくさん持つこともまた資本蓄積になりうる。実態を与えるってのはムギを貯蓄するってのと似ているけれど、食べられないので消費には結びつかないんだけどね。設備や在庫や技術などが蓄積される資本とはことなり、生産力を上げないんだけどね。だけど、いろんなものと交換できる、圧倒的な利便性を表現するにはとてもよい。純粋資本主義には権力って概念が出てこないんだけど、実はそれって権力の言い換えでしかないんじゃなかろうかと思うけど(それを指摘したのがクナップと見ていいんじゃないかなぁと思うけど自信なし)、まぁそれはいいや。今期に金属をたくさん溜め込めば、来期にはたくさん交換できる/権力を発揮できるのですよ。系が閉じていない感じがして気持ち悪いんだけどね。エデンの園を追い出されたら、他にも人間がいた!みたいな感じで、マクロの生産力は金属貯めても高まらないんじゃない?とね。
で、ここまで主要2派閥の貨幣観を整理してきて、さてでは内生的貨幣観は?となるんだけど、今日はここまで。

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