地方自治論の穴
あまりにも時間がないので、要点だけ書いておこうと思う。
地方自治をベースにした民主主義、財政民主主義には決定的に穴がある。それは、ティボーモデルの正反対のものだ。つまり、地域の住民は、誰を住民として受け入れるのかについて、排除されている、ということ。
地域おこし協力隊なんかで、地域の一員として受け入れるかどうか、丁寧にマッチングしているところは、事前によくすり合わせて、住民がOK(しかも厳密なコンセンサス)の場合にのみ受け入れる、ということをやっていたりする。そうすると、不幸な結婚を避けることができるのね。だから、定着率がいいよ、みたいな成功事例として扱われる。
他方で、ほとんどの地域の住民は、自分たちが誰と”共同体”を形成させられるのかについて、ほとんどタッチすることができない。東京の話になるけれども、気がついたらでっかいマンションができていて、あっという間に旧住民と新住民のパワーバランス(数)が入れ替わってしまう。この問題については、以前から関心があったのであるが、住民自治と絡まり合うと非常に切実な問題となる、ということに最近気がついた。生活形態や、仕事によって、居住地を変えることは、現代社会では普通かもしれない。しかし、そのことと住民自治の相性の悪さについて、より真剣に向き合わなければならないだろう。居住地を点々としながら、民主主義を語ることの恐ろしさを、正面から受け止める必要があるのではないだろうか?
風の谷的な試みがあるという。一種の”意識高い系”ゲーテッドコミュニティである。元の議論は、金持ちばかりが集まったコミュ、という意味だが、意識高い人ばかりが集まった、というようにみている。多様性が大切だといいつつ、自発性をもって選んだ人たち、選ばれた人たちで作るコミュニティらしきものに、非常にゲゼルシャフトを感じるのは私だけだろうか。もちろん、それが長期化すればゲマインシャフト化することも考えられるのだが。多様性が大事だと考える人たちは、本当に多様な人間関係の中に入っているのだろうか。いや、多くのリベラル派は市民としか触れ合わない。関連して、以前このような話を聞いて、強烈な違和感を持ったことがある。ある人が引っ越した先で、地域のお祭りに参加するようになった。それ自体は望ましいことと言えなくもないが、それは飲み屋で知り合ったネットワークに依存したものであった。地域のようで地域じゃなかったわけだ。なんだろうこれは。多様なようで、共感した仲間たちとつるむことの延長線上に、多少の地理的要件を当てはめた、だけのものに私には見えたのだ。少なくとも、私の考える多様性は違う。私の考える地域というものは、選択できないものだ。選択できないからこそ、その多様性を受け入れることが必要になってくる。クリームスキミングしておいて、多様性スパイスと地域フレバーを振りかけてそれっぽいことを言っちゃうのがリベラルなんだろう。そこが、自分自身は保守なんだなぁと思う所以だ。
今年は選挙イヤーなので、民主主義とか投票についての話題が増えそうだ。かつては私も、政策で政治家は選ばれるべきだと考えていた。しかし、長年のFWを通じて、その考えは変わった。地元の人を選ぶのがいいのよ。それが誰であっても。ただし、パワハラの人はだめだし、地域のいうことを聞かないやつはだめだ。地域でもてはやされつつも小間使いできる。こういう、どぶ板踏み抜ける奴が、やっぱり地域には必要なんだな。賢いけれど、地域に見向きもしないやつよりも、地域の大将に入れ知恵する方が、近道なのではないか。そう思えてならない。
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