市場と国家の四象限

レッセフェールという言葉がある。自由放任政策を示すフランス語で、しばしば市場中心主義を表す政策として語られる。ただ、この市場を軸とした自由か規制(民主主義による統制)かという問題は、国家の政治的機能を軽んじている。その意味を説明したい。

国家、それをLeviathanと見ても良いし、人間を抑圧する機構とも、想像の共同体と見ても良い。しかし、どうやら規制を取り払った先にあるのは、完全市場の機能する世界ではなく、クローニー資本主義だったようだ。全てを自由にすると、例えば長州閥とそのトモガラの支配する世界が、近代日本であったのかもしれない。ホッブスの議論はまさにこのような状況を念頭においたもので、というと自然状態を読み込み過ぎかもしれないけれど、完全な自由の先にあったのはパワー(権力や暴力)がものをいう世界ということだったのだな。このこと自体は何ら新しい発見ではないのだが、近代国家が成立して約200年の今の日本で、それが露骨に観察できるというのはなんたる皮肉か。

万人による闘争を防ぐためには、強い政治的な統制が必要になる。政治に対する、政治的統制といってもよい。ところが、この先にはふたつの道がある。ひとつは、政治的統制を勢い余って、経済的統制にまで進める考え方であり、もうひとつには経済的統制は行わないという考え方である。前者を社会主義・計画経済と呼び、後者を民主主義・市場経済と呼ぼう。呼ぶ、と言いたいところだが、呼ぼうとしたのは、イメージのコンセンサス自体はなさそうだからだ。政治への統制を有り-無し、経済への統制を有り-無しで考えると、四つの区分ー四象限があらわれる。残る一つの、政治的統制無しー経済的統制有りは地獄のようだが、全近代社会がまさにこれだ。原始共産制といっても良い。原始共産制には身分も格差もなかったというのは幻想で、生産力の弱さもあるが、パワーが前面に出る強烈な身分社会だったというのはすでによく知られたことだろう。

さてさて、今日書きたいと思ったのはこの四象限のことではない。タイトルはそうなっているけれど。というのは、日本経済は上手いこと混合経済でやってきた風なのであるが、どうにもうまくいっていないのだ。混合経済というのは、計画経済と市場経済の両方のセクターが存在する経済体制のことである。あまり意識されることはないが、パブリックセクターは、計画経済で出来上がっている。需要量を算定し、その価値付け(単価)を行い、丁度良いように生産を行う。もちろん、租税国家において、この計画経済は市場経済・資本主義に従属しているというように枷が嵌められている。そのことを、租税国家と呼ぶ。国家権力が、その政治的権力を利用して労働力や資源を調達して、国家自らが生産を行うことはあり得る。労働者たちには必要なものをすべからく現物給付で提供すれば、貨幣の存在しない計画経済国家となる。しかし、市場経済とのミクスチャーを しようとするならば、一方で貨幣なき社会を、他方で貨幣による社会を両立させることはできない。計画経済側の人間が、市場でものを買うことができないからである。そこで、国家も貨幣を導入する必要がある。

その貨幣は貢献に応じて配られても良いし、必要に応じて配られても良い。必要に応じて配れば、ほぼ定額で配るということになろうか。国庫の貨幣と、市場の貨幣はシームレスだ。現代日本が、日銀券と銀行預金との両方を使いこなしているのと同様である。銀行間決算には日銀準備が使われることを考えるに、ヒエラルキーはあるんだけども。いずれにせよ、ここまでが、理論的な混合経済のイメージね。で、問題は準市場のメカニズムなのだ。

混合経済は、ふたつの経済体制が並立しているイメージ。たしかに、予算というのはそのようなものである。ここまでは博論で書いた。ところが、現代日本では準市場の方が重要だったよかもしれない、と考えるようになった。というのは、まず政府は労働市場から労働力を購入しているふりを徹底的にしている。自由と平等、自発性と強制性は相性が悪いが、国家が強制獲得経済ならば、必要な人材を徴発すればよいはずだ。だが、それはしない。租税を通じて私的所有権を侵害することをしても、労働力の徴発はあまりしない。徴兵制もなくなりつつあるしね。だから、国家は資本主義経済に、市場経済に従属しているふりをしなければならない、ということになる。

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