Epicross6. 全体性の時代
社会が変化してきているとか、世の中の価値観が変わってきているとか言われ始めたのはもうずいぶん昔の話になるが、ごく最近になってその変化が顕在化してきたように思う。
それは漠然とした社会という広い範囲の話だけではなくて、仕事や生活、身近ないろんな分野や場面において「今までと同じでは成り立たない」ということが現れ始めている。
時代の変化の発端を垣間見ているようである。
音もなくしかし確実に、社会の水面下で起こっている変化。
徐々にうねりのように起こり、静かに定着化している変化。
その一端を捉えてみたい。
拡大の時代
高度経済成長期と言われた時代があった。
高度経済成長期が一昔前というのももう昔の話になった。
高度経済成長期はすでに二昔も前の話で、日本が4%の経済成長を続けていた時代は歴史の教科書の中の話になりつつある。
その後も含めて、日本という国が欧米化を目指していた時代の価値観や社会構造は、強いものが勝ち力のあるものが生き残るという極めて分かりやすいものだった。
企業はどんどん大きくなり、シェアを拡大。効率化によってさらに大きく成長していく。力と強さが動機になって世の中が動いていた。
力や強さはその時々によってカタチを変える。あるときは規模。あるときは資本。あるときは正義。
力と強さを求める会社のエネルギーによって、社会全体が成長していった。
個人主義の時代
そのような社会背景があって、時代は次第に個人主義へとシフトしていく。
力と強さを得るためには組織の中にスーパーエースが1人いればよく、スーパーエースの所属いかんで組織の力量が決まってしまうような時代。
逆に個人においては、自分の力量を認めさせることが命題となった。
その他大勢の中から一歩抜け出して実力を示していく。誰よりも早く結果を出していく。
競争と競走による結果主義の中でいろんなものが動いていた。
当然純粋な競争だけではなく、足の引っ張り合いや駆け引き、腹の探り合い...いろんな影の部分を生み出したことは言うまでもない。
個人的スキルによって成果が生まれ、成果によるヒエラルキーの中で、個人と組織が折り合いをつけていった時代。
高度経済成長期の次に現れたのは、個人主義と成果主義の時代だったように思う。
100×1 → 1×100の時代へ
それが2000年代に差し掛かると個人と能力の限界が見えるようになり始めた。
1人の人間のキャパシティの限界。そして、多様性。
成果を測るものさしが増えたことで、個人技によって生まれていた成果に陰りが見え始めた。個人の力だけでは成果を出せなくなった。
個人の成果が主流であったときは、マイナスが生じてもそれに余りある圧倒的プラスがあれば解消された。
もし、マイナスが生じるのであればそれを切り捨てればよかったし、実際に切り捨てることもできた。
それが今や全体がプラスであっても1つのマイナス要因で逆方向に傾くし、マイナスを切り捨てることも難しくなってきた。
組織にとってはマイナスをどうプラスに転換するかが課題になり、組織としての成果をどう高めるのかが模索され始めた。
1人が頑張って出した100の成果よりも、100人が1ずつ出して生まれた成果が指向されるようになった。
組織の成果が「個の集合体」から「関係性の総和」にシフトしたのだ。
全員が一歩前進する時代
この変化は個人の成長と発達にも及んでいる。
「進むことのできるやつが進むことができるところまで」というような成長発達から「誰もがそれぞれの場所で一歩前進する」という成長発達への変化。
これには2つの意味がある。
1つは「成長発達は自分自身が責任の下にある」ということ。
今まで誰かが出してくれていた委ねていた成果と成長の片棒が、自分にもかかってきたということ。
そしてもう1つは「誰もが自分の可能性を活かせるが時が来た」ということ。
誰もが今いる場所で一歩前進することができ、それが陽のあたる場所に出て、評価される時代になったということ。
自分の進む道に対してこれまで暗黙的につくられていたレールはなくなった。自分の力で考え、決め、歩まねばならない。
ただ、自分の可能性を制限するものもなくなった。
未来は自由だ。
和△1金◻︎3◻︎3D30/4w5/INTP/秘密兵器。ワークデザイナー。高校時代に出会った料理人の影響で料理の道へ。「素材を活かす」料理の考え方は人材にも通ずると信じ、その人が持ち味を“思い出す”自己変容を描くセッションや研修を実施中。