Epicross3. 人の想いを汲むということ
人は想いを汲んでもらいたい生き物である。
さらに、人の想いも汲みたい生き物である。
ただ、人は人の想いを汲めない生き物であり
人の想いを汲めると思っている生き物である。
人の想いを汲むということ。
本当にこれができたとしたら、どれだけ人間関係が円滑になるだろう。
どれだけ普段の生活が幸せなものになるだろう。
人の想いを汲むということ。
それは幻想なのかもしれない。
あるいはもしかしたら希望なのかもしれない。
関係性が希薄と言われているこの世の中の中で、この「想いを汲む」ということに人はどれだけ向き合っていくのか。
察するということ
「察する」ということがある。
明言を避け、間接的な対話を好む日本でのコミュニケーションでは、求められるらしい人間関係構築スキル。
察すること。つまり、相手が発言した言葉の背景を読み解いたり、想像したりすることで、その言動の意図を慮ることで、相手と気持ちを共有し、コミュニケーションが円滑に進むであろうということだ。
我々は特に意識もせず、この察するということをコミュニケーションの中で行なっている。驚くほど自然に行なっている。
円滑にコミュニケーションが取れているときはいいが、自然に行いすぎていることの弊害として、意思疎通がうまく取れないと「いや、察しろよ」という話になる。
コミュニケーションには「察する」ということも含まれている。
我々が使うコミュニケーションという言葉は
コミュニケーション = 言葉の伝達 + 背景の推察
という2つの要素で成り立っている。
だから、背景を察するということができないと円滑にコミュニケーションが取れていないということになる。
想像するということ
察するということの前提に「想像する」ということがある。
相手が置かれている状況を想像して、可能性を考えると言葉の背景が推察される。
察するということは、想像するということの中に含まれているのだ。
これがなかなかに曲者なのだ。
なぜならば、想像は自由だからである。
想像されることが個人の自由であるならば、想像されて導かれたことは人によって様々である。何を考えどう思おうがその人の勝手である。
ただし、それが察するという文脈で使われたとき、その想像されたことは「一般的」で「合理的」でなければならないものになる。
もしもそれが「一般的」で「合理的」でなければ、常識ではないものになる。「フツーの感覚」がわからないということになる。
個人の自由で生み出された想像に、一般的な感覚による推察を求められるのが「人の想いを汲む」とか「人の気持ちを汲む」ということなのだ。
想いを汲むということ
では、人が想いを汲むということを考えたときに、それはほぼ不可能だということである。
もし誰かの想いを汲めた瞬間があったとして、それは結果論で超偶然だったということだ。
超偶然に成り立つ世界の中で我々人類は生きている。
人の想いなんて汲めなくて当然なのだ。
でも人は人の想いを汲む。
人類の遺伝子に刻み込まれているのだろう。
それがコミュニティを築いて生きるというシステム、文明社会というシステムの上に生きることを選択した人類の知恵であり、能力だ。
そうすることで人類は、同質化を進めてコミュニティを存続させることに成功してきたし、毎回最初から伝えなくてもいいのでコミュニケーションに要するエネルギーを減らすことに成功してきた。
内面まで想像する能力。実にホモ・サピエンスらしい能力である。
ストレスレスによるストレス
現代の多様化する社会の中で、またダイバーシティが求められる世の中で、人の想いを汲むということは、ますます難しくなっている。
どの人にも当てはまる状況や価値観、考え方の最大公約数がどんどん小さくなっている。
ストレスをなくすためにつけた能力が、どんどん別のストレスを生むようになってきている。
だとすれば、そのような時代にあって、想いを汲むという人の能力も次のステージへと進化をするときが近づいているのではないか。
では、どのように進化するのか。
その答えすら、ダイバーシティの渦の中では計り知れない。
大事なのは、その進化の先を予測するということではなくて、そもそも想いを汲むということが相当レベルの高いチャレンジであるという視点に立って、相手と関わることなのではないかと思っている。
和△1金◻︎3◻︎3D30/4w5/INTP/秘密兵器。ワークデザイナー。高校時代に出会った料理人の影響で料理の道へ。「素材を活かす」料理の考え方は人材にも通ずると信じ、その人が持ち味を“思い出す”自己変容を描くセッションや研修を実施中。