Epicross.12 とは言っても世の中は“万能”を求める
「多様性の時代」とか「短所ではなくて長所に目を向ける」とか言われる。
何か正解があって、そこで定義される「正解」を目指して努力するのではなく、1人1人の「個性」とか「可能性」に目を向けていくべきだと。
組織運営とか人材育成でもそうするべきだと。
世の中の流れもそうなってるし、これからの複雑性の時代を生きていくためにはそうなのだ。
とは言っても潜在的に求められるのは“万能”と呼ばれる人材であり、汎用性のあるスペシャリストなのだ。
ここに多様性の社会の人材育成の難しさを感じる。
状況的課題と心理的課題
人材において多様性が求められていないかというとそうではない。
(一部義務や社会通念に応える意味でのニーズはあるが今回は省く)
これからの複雑性の時代や変化の激しい時代においては、様々な考え方や視点を持った人材が必要不可欠であり、個人技で勝つ時代から総合力で生き残る時代になったと言える。
社会情勢や状況的にはそうなのだが、心理的、感情的に見るとなかなか受け容れられ難い。
長所に注目するということは短所に目をつぶるということであり、目をつぶれる短所であればいいが目をつぶれない短所であった場合、簡単に受け容れるとはならない。
相手の特性や短所を受け容れるということは、自分の「これぐらいはできるだろう」レベルができないこともありうるということであり、自分の予測の範囲に収まらない事柄も受容しなければならないということである。
それが「できなかったね」で済めばいいが、成果につなげなければならない場合、できる誰かが肩代わりすることになる。
組織においても「なんでもできる」人材の方がマネジメントが「楽」なのだ。
“万能”の意味が変わった
そして“万能”の持つ意味も時代の変化とともに変わってきている。
これまでの“万能”は
万能 = なんでもできる
の意味合いが強かったと思う。
「天才」「秀才」「優秀」と言われる人材。
「なんでもできる」はその人個人の能力に依存しており、個人の能力ができるかできないかを決めていた。
ところが、多様性の時代になると個人の能力のバラつきが大きくなり、組織内の凸凹も大きくなる。
この場合の“万能”にはこの「凸凹を収められる」能力も含まれるのだ。
組織として多様化したで取り組んだ結果、最終的にカタチにまとめ、見れる成果にすることができる。
組織マネジメントの機能の1つとしての“万能性”が求められる。
いわゆる「ジェネラリスト」の能力であるが、異なる点は
ジェネラリスト or スペシャリスト
ではなく
ジェネラリスト and スペシャリスト
である点である。
各分野のスペシャリストであるだけでなく、加えて統括や総括できるジェネラリストであることも求められるようになってきているということである。
”万能”の呪縛
結果「なんともできない状況」が多発すると「なんともできない状況をなんとかできる人材」の需要が高まり、多様性の時代の中での“万能”人材が求められるようになった。
“万能”人材を求めるということは、人材の判断基準は「万能かどうか」であり、人材育成の方向性は「個性を活かす」と言いながらも「万能にどうなるか」である。
組織における人材育成においては暗黙的に「万能型人材ルート」か「多様性人材ルート」のレールが敷かれているように思う。
このことが正しいか正しくないかということではないのだが、これが「万能型人材」と呼ばれる人たちの多様化を妨げているような気がしている。
万能型人材も多様性人材の一部であり、本当の意味で「なんでもできる」人材は存在しないのだ。
「なんでもできる」(ように見える)人材もできないことがあって当然であるし、それも含めての能力発揮であり可能性なのだ。
多様化した人材のマネジメントを「誰か」の能力に頼るのではなく、組織課題として組織運営エコシステムに組み込むことが、多様性の時代における人材育成ではないかと考える。
多様化した人材を組織が「みとめる」から多様化した人材が組織を「つくる」
本当の意味での「多様性がみとめられる社会」への今は過渡期なのかもしれない。
和△1金◻︎3◻︎3D30/4w5/INTP/秘密兵器。ワークデザイナー。高校時代に出会った料理人の影響で料理の道へ。「素材を活かす」料理の考え方は人材にも通ずると信じ、その人が持ち味を“思い出す”自己変容を描くセッションや研修を実施中。