見出し画像

Epicross.10 安全性をどう考えるか

新型コロナウィルスの話題が出てから、今日まで様々な対策・対応が取られてきている。

未知のウィルスに対して、手探り状態での対応が続いているが、個人にも社会にも与えた影響は大きい。

また、マスク不足でゴムが品薄になるなど、影響が思いもよらぬところにまで派生して、この世界がシステムの連鎖によって動いていることを、図らずも実感させられる事態になった。

安全性についても、様々な影響や指摘が出ている。

いかに普段のリスクマネジメントに穴が多いか。否、普段のリスクマネジメントとして考えられていること以外のリスクがこれほどあった事実を突きつけられた。

今、現在時点での安全について考えてみたい。

安全性のハレーション

現在のこの事態において、様々な場面で起こっている二律背反や判断の迷いには、2つの安全性のハレーションがあるのではないかと思う。

それが「社会的安全性」「疫学的安全性」だ。

これまで必要な安全性として言われてきたのは「社会的安全性」であった。

特に多くの災害が起こった後には、コミュニティの重要性が叫ばれてきた。

「孤立化を防ぐ」や「社会的弱者に対する支援」など、社会の中で居場所となる場や交流が生まれる場の創造が社会的に醸成されてきた。

コミュニティデザインや地域コミュニティなど、コミュニティの形成と社会的な安全性をどうつくるかということを考えてきたのが、これまでの安全性であり、社会の課題であった。

ところが今回の感染症によって強調される安全性はまったく別の安全性である。それが「疫学的安全性」である。

疫学的な見地からすれば、安全性を確保するためには「できるだけ人に会わない」「外に出歩かない」などの対策が有効であるとされる。

つまり、これまで社会的な安全性と考えられてきたことに対して、真逆のことが安全性になるのだ。

これが様々な場面で二律背反や判断の迷い、決断の遅延を招いているのである。

突きつけられた新たな局面

加えて、社会的な構造も、このハレーションに加担しているとも言える。

例えば、封建的な社会構造であったならば、判断や決断は早いだろうと思う。

社会の中で批判や非難が起こるかどうかや納得が得られるかは別にして「決断する」行為に関しては、力あるものの独断で行える。

行われた決断やプロセスが正しいかはさておき、独断先行できた。

一方現在の社会では、ハレーションが起こったときにどちらも取れないことが多いのだ。

今回のように相反する2つの選択肢が現れたとき、どっちもつかずになることが多い。

それが社会のいろんな部分で綻びを生む結果になっている。

また、進んだグローバル化も事態を進める要因の1つになっている。

人の往来が自由にでき、さらにその距離も長く、時間も早くなった時代だからこそ、感染範囲やスピードが上がっているのかもしれない。

今回の感染が広がっていることは、現代社会が社会システムとして機能しているが故に起こりえたことなのかもしれない。

そんなことを考えると、この事態は現代社会に対して、限界と可能性を示唆している。

次の一歩を考えるときがきているのではないか。

今までの理論や価値観では解けない課題が現れたということだ。

しなやかに変化する

「ウィルスとの戦争」といった言葉が出るように、今人類は未曾有の危機と遭遇している。

しかし、未曾有の危機はこれが初めてではない。

これまでも、人類を脅かす未曾有の危機は発生してきた。

その度に人類は、社会構造を変え、価値観を変え、しなやかに変化してきた。

今回もまた「しなやかに変化するとき」なのだと思う。

進化論のダーウィンも「生き残るのはしなやかに変化するものである」と言った。

これまで考えられてきた安全性と別の安全性が出てきたということは、包括した安全性ができるキッカケでもあるのだ。

今、本当の安全は何なのか。

多くの人が「安全」が持つ意味を考える機会を持つことが、この事態の裏側に突きつけられた課題の1つなのではないだろうか。

ウィルスによる安全性の捉え方から、そんなことを考えた。

和△1金◻︎3◻︎3D30/4w5/INTP/秘密兵器。ワークデザイナー。高校時代に出会った料理人の影響で料理の道へ。「素材を活かす」料理の考え方は人材にも通ずると信じ、その人が持ち味を“思い出す”自己変容を描くセッションや研修を実施中。