Epicross9. つながりは財産と言われるが
価値観の変動が言われる。
経済的価値観をベースにした資本主義経済から次の価値観へ。
様々な価値観の定義はあれ、価値観が変化していることは事実なのだろう。
多様性とかダイバーシティとかまさに、価値観が変わる → 価値観が増えるということを如実に表している。
価値観が変わる時代の真っ只中にいる。
これを機会に「価値観」というものを見直してみたい。
つながりという価値観への違和感
例えば、貨幣価値以外の価値観として人とのつながりが挙げられている。
お金ではないところでの報酬や関係性。
それらが結果的には重要であると。
それについては異論はない。
経済的ではないものが重要視されてきていて、経済的報酬があること以外も選択肢として選ばれることを考えると、時代の変化としては、そうなのだと思う。
ただ「結局それも質より量で測られるよね」ってことなのだ。
クラウドファンディングとか。
結局、分野は変われど、社会は拡大の方向以外に進んでない。
つながった先がどんな関係かよりも、何人とつながったかの方が重要視される傾向にある。
つながりの重要性とはいうものの、現在そのつながりの重要性の根拠になっているものは、経済的な代替に過ぎない。
経済的な価値を関係者数という違う数で置き換えただけなのだ。
「つながり」に価値を置くことに違和感を感じるのはこの部分である。
数に頼らない価値観
多様な価値観、多様な考え方が出てきたとき、それが認められるかどうかは極論まできたとき結果数的判断になる。というか数的判断に委ねざるを得ない。
出てきた新しい価値観が認められるかどうかは、新しい価値観を受容できる人の数にかかっている。
新しい価値観がすぐに認められることの弊害もあって、もし何の抵抗もなく個人の価値観が認められてしまったら、個人の欲望のままに行動することが許容されてしまう。
そうならないために、数による浄化作用が働くことは非常に重要で、それによってコミュニティが維持できることも事実である。
ただ一方で、数に頼らない価値観はできないものか。と考えている。
別の言い方をすれば、マイノリティが生きやすい社会である。
マイノリティというハンデキャップ
マイノリティであることのハンデキャップは、マイノリティであること以上に、マイノリティであることが受容される環境をつくることであると思う。
マイノリティが生きていくための手段としては大きく2つある。
1つは、マイノリティであることを隠して、多くのマジョリティと同じように価値観を変えて生きていくこと。
もう1つは、マイノリティが価値観の1つであることが認められるように環境に働きかけ、価値観を確立させていくこと。
前者は周りに波風は立たないが「自分らしく生きること」を諦めることでもある。
日本も昔は特にマイノリティ側が諦めることが求められた。
それが善い悪いではないのだが。
後者は、長く続く戦いの始まりを意味する。
価値観の異なる人が相手であることがほとんどなので、価値観の異なる相手に説明し、理解してもらい自分の居場所が確立される。
マイノリティであることに、マイノリティを説明するという負荷が加わる。
マイノリティが社会の中で「自分らしく生きる」ことは、それだけエネルギーが必要なのだ。
共感すると受容する
で、である。
つながりを価値観のベースとしたときに、マイノリティという価値観が認められるのは、なかなかに時間がかかるだろう。
それが自分に利害関係のない事柄ならまだしも、自分に関わる事柄ならすんなりとはいかない。
カチ合う価値観だってもちろんある。
そこで大切なのは「価値観に優劣はない」ということではないだろうか。
自分の価値観を卑下する必要もないし、相手の価値観を見下す必要もない。
価値観に共感できなくても受容することはできるし、共感できなくても共存することはできる。
異なる価値観が同じレベル感に立てることが、価値観の変化が顕在化することなのかもしれない。
つながりの重要性から、そんなことを思った。
和△1金◻︎3◻︎3D30/4w5/INTP/秘密兵器。ワークデザイナー。高校時代に出会った料理人の影響で料理の道へ。「素材を活かす」料理の考え方は人材にも通ずると信じ、その人が持ち味を“思い出す”自己変容を描くセッションや研修を実施中。