Epicross4. 自分自身と向き合うということ
自分自身と向き合うときがある。
それは何か壁にぶち当たったときかもしれないし、何か外的なキッカケで生まれたタイミングかもしれない。
内省、内観、自分探し、自己理解...etc
いろんな言葉で表現される「自分自身と向き合う」ということ。
自分と向き合ったその先に、自分を識る瞬間があるということ。
自分を識ったその先に人は何を見るのか。
そんなことを考えてみたい。
自分自身に出合う旅
自分自身と向き合うということは、途方もない旅である。
自分自身と向き合った結果出合うことになる自分を見つけるまで、永遠とも言える時間がそこにはある。
(それに出合えるまで続けるかどうかは別として)
それは新しい自分を発見するということでもなく、古い自分を捨て去ることでもない。
考えた結果辿り着くものでもないし、感覚的に掴むだけのものでもない。
途方もない試行錯誤と忍耐の上に、自分と向き合うエネルギーは成り立っている。
それはとてつもなくしんどいことでもあり、覚悟の要ることでもある。
何があるという確証もなければ、何をすればいいというマニュアルもない。
その際に見つかる自分があるとすれば、見つけ出したものではなくて、ただ偶然的に「出会った」自分(ある意味では「出会ってしまった」自分)なのだ。
自分と向き合うことは、まさに目的地のない旅なのだ。
自分自身を思い出すということ
その旅の先にもし「出合った」自分自身がいたとすれば、それは自分自身を「思い出した」ということだ。
何かのキッカケ。それは内面の変化なのかもしれないし、外的な影響かもしれないが、何かキッカケや機会があって自分自身に「出合う」というとき。
今まで知り得なかった自分自身を見つけたというとき。それはその瞬間に新しい自分自身が瞬時につくられた訳ではなくて、今まで隠れていた自分にその一瞬光が当たったということだ。
光が一瞬当たることによって、今まで隠れていた自分(自分の一部)を認知できるようになったということだ。
もともと内面に在った自己、内面にいた自分を認知したので、発見したや現れたというよりは「思い出した」という表現の方がふさわしい。
ということは、自分自身に向き合うということは、自分自身を思い出すということ。
「自分自身が何者であるか」を「思い出す」ということなのだ。
何者であるかと何者で在るか
「何者である」かを思い出すと次に現れてくるのは「何者で在るか」という問いである。
「何者で在るか」は言い換えると「何者として在るか」ということ。
つまり「自分自身の存在定義ができますか」ということを問われるわけである。
自分自身に向き合い、自分自身に出合い、自分自身を思い出した結果、自分自身がどういう存在であったか、どういう存在として在りたいか。自分自身の存在と向き合うことになるのだ。
自分自身はなぜ存在をしているのか。
何のためにこの世に生を受けたのか。
人生を通して自分に何ができるのか。
ただただ自分の存在 ー 在り方 ー Beingが問われ続ける。
だから、自分自身と向き合うということは、途方もないことで、旅のようなものになる。
しかしながらそのプロセスを経てこそ、本来の自分に近づくのだ。
本来の自分に人生の中で出合えるとしたら、それはかけがえのないことであり、本来の自分に出合える人生はすばらしいものであり、本来の自分を識って生きる人生は、生命を全うするということである。
目的地のない旅の果てに、自分自身の生命の姿を取り戻すのだ。
目的地のない旅をするあなたに
もし、その目的地のない旅にあなたが出ているとしたら、その旅が始まったことを心から祝福したい。
そして、その旅に幸多きことを祈る。
ただ、幸多きことと言うのは、その旅が無難であるということではないし、その旅から危険がなくなるということでもない。
その旅の中で、起こるべきときに起こるべきことが起こり、出合うべきときに出合うべきものと出合うということである。
いろんな出来事、いろんな出合いを通して、あなたはあなたを取り戻していく。
何を持っているでもない。
何か能力があるでもない。
本当の輝きを取り戻した生命に、できないことなどない。
和△1金◻︎3◻︎3D30/4w5/INTP/秘密兵器。ワークデザイナー。高校時代に出会った料理人の影響で料理の道へ。「素材を活かす」料理の考え方は人材にも通ずると信じ、その人が持ち味を“思い出す”自己変容を描くセッションや研修を実施中。