10年遅れの思春期?

思春期の正確な定義はいろいろとあるだろうが、僕はいま思春期と言っていいメンタルである。

きっかけは、心の病気と診断されたから。
ストレスを感じるとすぐに体調を崩すようになってしまった。
病気の始まりは、昨年夏の体調不良だと思う。
自分の心を無視していたので、ストレスに対する耐用限界が来たのだろう。
自分にとって心地よいことしかできない体になってしまったことで、図らずも自分と向き合わざるを得ないわけだ。

自分とは何か?
何が好きで(嫌いで)、何ができて(できなくて)どういうことに心が動くのか。
今まで無視していた自分の内面に向き合う期間になっている。

反抗期だろうか?
親に対する反乱のようなnote記事を書いている(が、公開するかどうか悩んでいる…。憎んでみても親は親だ)。

物事がうまくいかないことにイライラしている。
この悩みって、ザ・思春期って感じがする。学生の頃なぜそれがなかったかといえば、テストで良い点を取ることが全てだと思っていて、それは達成できていたから。
人生うまくいっていれば、イライラなどするはずもない。

でも社会は違う。
ある側面から100点を取れたとしても、違う側から見れば欠点が見えるもので、完璧というものはあり得ない。
そして完璧を目指したところで、それが報われるとは限らない。
それにイライラしている。
努力が報われない世界って、傷つくんだよなあ。
僕が学校で学んだことは間違っていたのかと思わされる。

吸ったこともないタバコが異常に吸いたくなる。
イライラを発散させたくて。
とっくに成人しているので別に法律違反でもなんでもないのが、少し悲しい。

健全な思春期は無責任だからこそ
「大人の責任」は失敗を許さない。
大人になるということは、社会のルールに縛られて、それを守ることを求められる立場だ。
未成年の間にその社会のルールを学んでいくわけだけど、それを学ぶ場である学校はある種の治外法権のように感じる。
例えば校内で喧嘩が起こったとして、警察を呼ぶよりも先生が仲裁することの方が多いだろう。
街中で喧嘩すれば、周囲の人に通報されるのは必至だというのに。
行きすぎれば当然問題になるのだろうが、校内問題をすぐに警察沙汰にするのは、教育機関として失敗していると自ら認めるようなもの、のような気がする。
社会のルールを教えるためにあるんでしょ?
「失敗」のための場として、学校は存在していてほしい。
そこで怒られるのも、学びだ。

「許される」あいだに間違いを知っておくのも、勉強だったんだなあと思う。
学生の頃からルールを守ることに固執していると、アウトとセーフのあいだに実はまあまあ広めのグレーゾーンがあることが分からなくなる。
人間は嘘をつくし、簡単に本心を言わない。
建前だけが世界の全てではないのに、噂話やネットニュースは新旧織り交ぜたあらゆる建前を僕にぶち込んできて、生きづらさだけを押し付けてくる。
むかついて仕方ない。

自分が幸せでいられる世界を早く作らないと。

数日後に読み返したら「子供みたいなこと言ってんな」って、やっぱり思うんだろうか?
読み返して恥ずかしくなれば、むしろ正解かもしれない。

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