コロナはパンデミックではない、ならなんなのか
森田洋之さんの『日本の医療の不都合な真実』刊行記念イベントで対談することになりました。ありがたいことです。
https://www.gentosha.jp/article/16869/
森田洋之とは?
森田さんといえば『破綻からの奇蹟』ですね。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B015DJTZL2/0waki-22
元夕張市立診療所所長としての経験をもとに、「夕張ではたったひとつの病院が診療所になり、医療費が減ったが、死亡率は上がらなかった。なぜか?」という刺激的な問いを提示して2016年に日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を取った本ですね。
森田-大脇の関係は?
その森田さんが、なぜぼくに声をかけてくれたのか。
『真実』の最後に「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか」という言葉が出てきます。コロナの話ですね。「ステイとかホームとかゴーとか、政府は国民を犬だと思ってるのか?」という冗談がよく聞かれますが、そういう意味合いですね。
森田さんはこの言葉を「友人」から聞いたのがきっかけで『真実』を書いたとのこと。
この「友人」というのはぼくのことなんですね。森田さんのブログに出てきます。
たぶんメディカルジャーナリズム勉強会でZOOM飲みをやったときにしゃべったんだと思います。5月くらいかなあ。
そういえば「我々はもっとミシェル・フーコーの話をするべきだ」と言った記憶があります。その流れで出たんだと思います。
「家畜になっても…」というのは、元を正せばフーコーが言ったことの言い換えです。もっと言うと、この表現になったのは、東浩紀さんの記事が元です。
だからぼくの言葉として紹介されると「あわわ…」という気持ちになるのですが、まあ、ありがたいことです。
ぼくはフーコーに詳しいわけでもないので、フーコーは置いといて自分のこととして言うと(それでも興味ある人にはフーコーをぜひ読んでほしいので、短いところで言うと『性の歴史I 知への意志』と『知の考古学』、さらに短いところでは『言説の領界』をおすすめします)、森田さんの本がいわばぼくに対する回答ということになりますから、今度はぼくが答える番です。それで対談を、という話になったのだと思います。
大脇は『真実』をどう読んだのか?
まず、『真実』を読んでない人もいると思いますので、内容をざっくり紹介しつつ、ぼくの感想を添えていきます。
『真実』の主張はおおむね終章に詰まっています。短く言えばこういう具合になると思います。
医療は近代以降、人間の一生を大幅に安全にしたが、現代は行き過ぎていて、ゼロリスクの幻想をふりまいている。それは人間がリスクを引き受けて主体的に生きることを抑圧しているのではないか。コロナはその問題をあからさまにしただけなのではないか。
森田さんの主張は至って良心的かつ明晰で、事実をバランスよくとらえているとも思います。それはたしかにぼくが(ぼくが、と言っておきます)「家畜になっても…」という言葉で言おうとしたこととも重なります。
ですが、同じではありません。
言うまでもなく、森田さんはぼくに完全同意を示すために本を書いたわけではありませんから、考えが違うのは当たり前のことです。ですが、互いの考えが重なる部分と重ならない部分を明確にしておくことで、対話が深まるのではないか。そう思ったのでこのエントリを書いています。
では、なにが違うのか。
大脇が思うこと
第一に、ぼくは現代医学の問題を「医療化」ととらえています。
また難しい専門用語を…と思われるかもしれませんが、そのとおりです。イヴァン・イリッチという人が1970年代に流行らせた概念で、おおまかには「本来は医療の問題ではないことを医療の問題にしてしまうこと」という意味です。
人の生き死には天命ですが、医療の問題のように語られますね。ぼくの本で言うと、酒を飲むかどうか、なにを食べるか、運動をするか…なにもかも、好きならやり、嫌いならやめればいいはずのことですが、健康にいいか悪いかで価値判断されがちですね。そういうのが医療化です。
医療化は価値判断についての問題なので、リスクの問題ではありません。たしかにコロナはリスクパニックという面もありますが、その観点を捨ててでも医療化ととらえたほうが、コロナ以外の問題と整合的に理解できると思います。
第二に、医療化がよくないのは主体性を失わせるからではなく、もっと細かい多様な問題と結びつくからだと思っています。と言うか、医療化そのものを、全体をひとことで、良いか悪いかと言うことはできないと思います。それはもうだれにも止められないほど大きな時代の流れになってしまったので、「医療化をやめよう」という掛け声は現実味を失っています。
では細かく具体的に、コロナにおける生活の医療化がどんな問題を起こすか。
・病気になった人が責められる。被害者バッシング。
・相互監視が暴走する。自粛警察の問題。
・介護施設に住む高齢者など、最も生命のリスクが高い人ほど、ディスタンスは取れず、ZOOMもUBER EATSも使えず、社会の変化から取り残される。つまり負担の配分が不公正である。
すぐ思いつくのはこんなところです。
なぜこういう細かい問題を列挙するべきかというと、一挙に解決する方法はないと思うからです。医療化しなければ、すなわちコロナなんか知らなかったことにしてもとどおり生活していれば、「最近やけに風邪で死ぬ人が増えたね、気をつけないとね」で済んでいたかもしれませんが、それこそ現実味のない想定です。だから、「医療化しているせいだ」と指摘するだけではあまり意味がなくて、医療化の問題としてかつて語られてきたさまざまな事例を参照することによって、目の前の現実に応用するヒントを提示することが、本を書く人の役割じゃないかと思うんですね。
森田さんに聞きたいこと
そこで対談に向けて、ちょっと意地悪い質問をふたつ用意しておきます。
ひとつめ。コロナをリスクの問題と考えたとき、感染のリスクに対して犠牲にされるものはリスクと呼ぶまでもなく確定した現実です。これはリスクに対する行動としては不合理に見えますが、多くの人が感染を恐れているのは愚かなことでしょうか。
ふたつめ。感染のリスクを引き受けた人は具体的になにを守ったことになるのでしょうか。それは人間にとって本当に安全よりも優先するべきことと言えるのでしょうか。
森田さんの答えを楽しみにしています。
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