『TENET』は矛盾していると思うことについて

見てきました。以下ネタバレ満開です。ついでに他作品もネタバレします。

ぼくは映画にもSFにも物理学にも詳しくない、たまたま『TENET』を1回見ただけの人なので(ふだんの投稿を読んでる方はすみません、今回はぜんぜん関係ない話です)、読む人が読めばいろいろおかしいかもしれませんが、というかぼく自身見終わった直後の興奮気味な状態で書いてるので、明日になったら「そんなに深読みしなくても」と思ってるかもしれませんが、まあ書きます。

矛盾と言っても脚本や演出に粗があるとかそういう話ではありません。主張として、といって言い過ぎなら主題として、うまくいってないのではないかと思ったので。


評判のとおりプロットがたいへん入り組んでいて、一見してちょっとついていけないところがあったので、パンフレットを読んでいくつかの疑問が解消したのですが、そのうえで。

この話、あるレベルで要約すると「時間をうまいこと行ったり戻ったり循環させて調和の中に閉じこもりたいという未来人の目論見に逆らい、主人公は実存的に生きることを選ぶ」といえると思うんですね。まあ、普通に良心的な話です。

ところがラスト近くで「黒幕は君だ」という真実が明かされ(といっても、なんとなく予感できましたが)、実は主人公も未来人と同じことをしているとわかる。

で、あのインドのおばさんを始末するシーンに至って、主人公は非常に自覚的に「黒幕」を務めることが宣言される。あのセリフが想起させるのは、「インドのおばさんが富豪になれたことすら、実は一巡目の主人公に手がかりを与えるために二巡目の主人公が目論んだことではないか?」という疑念ですね。

そうやってグルグル回った先に、たぶん関係ないほとんどの人々はアルゴリズムの発動を食らうことなく、未来に向かって行ける。この面を見れば、まあハッピーエンドのために主人公が泥をかぶったダークナイトだ、とも見える。

しかしですよ。主人公の分身と言うべきニールはどうなのか。最後、自分が確実に死ぬ運命を知ったうえで、廃坑に突入していくわけですよね。実存的すぎやしないか。

というか、ハイデガーすぎないか。

実存的とは死に向かうこと、と言ってもまあいいのかもしれませんが、死をあまりに強調しすぎることで、生きてる人が背景に退いていないか。具体的には、パンフレットにある山崎貴氏の評で「ニールの正体はマックス」という説が出てきますけど、これはたぶん合ってると思うんですね。でもそれにしては、というかそこを指摘するまでもなく、マックスとかニールの生活がほとんど描写されていない。セイターがなにをどうこじらせてキャットにあんなにこだわるのか、キャットがどんな気持ちでセイターを殺すのかもほとんど描写されていない。尺が長くなりすぎるからかもしれませんが、そこを省いて実存とか言われてもな…と思ってしまいます。それが「矛盾」だと思う点です。物語上、アルゴリズム封印によって救われるべき人の代表はキャットであるはずなので。

代わりに実存的な生を肯定する要素というのが、何度か出てくるニールのセリフ「起こってしまったことは起こってしまったこと」ぐらいしか見当たらない。すべての仲間たちがほとんど疑問もせず悩むこともなく、アルゴリズム大作戦は悪だと、人類は滅ぶとわかっていても一度きりの歴史をまっすぐ歩くべきなのだと、あっさり決めつけている。これでは説得力なさすぎる気がします。


じゃあどういうのが見たかったか。ぼくはノーラン監督作品で好きなのは『プレステージ』です。

おいちょっと待て!という声が聞こえてきそうなくらい、あの話は破綻してますね。一見合理的にすべてが説明されるのかと思いきや、物質伝送装置ですよ。そりゃないだろと。

でもぼくはあの破綻こそが肝だと思っていて、つまりノーランは「現代にあって破綻のない物語を作ることは不可能である、したがってその破綻を利用して物語を現実に結びつけることこそが現代作家の使命なのである」という立場なのだと、そう受け取っています。

『インセプション』にしてもそうで、ラストの「トークンは倒れそうで倒れない、しかしコブは幸せそう」という場面が、「現代にあって基礎づけられた現実など存在しない、だからこそ夢を現実として語るしかないのだ」という立場を表明していると思います。

『プレステージ』や『インセプション』には、そこでカッコに入れられた「合理的な説明」とか「家族と生活する幸せ」の大切さをめいっぱい強調しておいて、最後にぶん投げる冷酷さがある。そこにノーランのすごみがあると思うんですね。

だから『ダークナイト』にいまひとつ乗れないのは(ジョーカーはすごい好きですが)、ハーヴィー・デントの正義がめいっぱい強調されているようでいて、デントがわりとだまされやすそうなおぼっちゃんキャラであり、見てるうちから「あーこいつ脆いな」と思えてしまうからなのですが…。

『TENET』にも似たものを感じるわけです。主人公がアルゴリズム大作戦を阻止したい動機がいまひとつ見えない。そのままで「ひっくり返すぜ」とか言われても、あんましアンビヴァレントな感じがしないのです。

だから結論としては、キャットの生活をもっと見たかった。というかキャットをもっと見たかった。というかエリザベス・デビッキが美しかった。エリザベス・デビッキ最高。ということです。

おあとがよろしいようで。

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