「反ワクチンの都知事候補はだめ」と言う人の話を聞いてはいけない

世の中には「Aという意見と反Aという意見があるが、実は『Aか否か』という問題設定が間違っていて真の問題はBではないか」という主張が理解できず、「Aに賛成しないなんておまえは反Aだな!」と決めつける人がいっぱいいるのですが、ここまで読んで「自分もそうかもしれない」と思わなかった人にこの先の話はたぶん理解できないと思いますので、続きは読まないでそっと閉じてください。

で、都知事選ですね。「山本太郎は反ワクチンなので投票してはいけない」という話を聞いたことのない方、良いことだと思いますのでそのままのあなたでいてください。以下、そういう言説があること、しかもある程度支持されていること、それからその言説のディテールをいくつか既知のこととします。証拠がほしい人は検索してください。

HPVワクチンの話はなぜか「副作用はあるのか」という話に占拠されがちなのですが、これは何重にも問題設定を誤った議論だと思います。

争いのない点として、HPVワクチンの添付文書に記載された副作用はけっこう多いです。疼痛82%。この点は添付文書に載っている、つまり実質的に厚生労働省公認の事実です。
まあ「刺すとき痛かった」とかを言い始めると100%になってしまうので、数字は数え方で変わると思います。インフルエンザワクチンの添付文書では5割とか6割とかになってます。数え方が同じかどうかわかりませんが、研究論文なんかで見てもHPVワクチンで痛みはけっこう出やすいみたいだな、という印象です。

で、よく言われる激烈な副作用があるかどうかですが、これはたいへん泥沼的な状況になってるので深入りしないでおきます。おおまかには、HPVワクチンを広めたい人が「そんなのない」と言い、広めたくない人が「ある」と言ってます。ぼくにはわかりません。というか、ここでは問題にしません。

「重い副作用がHPVワクチンの是非を決める」という考えは偏っています。また、ぼくが主張したいのはHPVワクチンの是非ではありません。

なので脱線ですが態度表明だけしておくと、何か激烈な症状に困っている人がいるのは現実です。したがって、それがHPVワクチンの副作用かどうかにかかわらず、というかたとえ「積極的な接種勧奨の差し控え」が解除されようと、そんな副作用など存在しないことが明白に証明されようと、十分な社会的支援はなされなければならないと思います。

激烈な副作用について言うとすれば、「仮にあるとしても少数である」という点は、「ある」派の人も認めてくれるのではないかと思います。全員とか何割ってレベルではないです。どう見ても。

とすると、話は「害が出る確率がこれくらいで、全体としてはこれくらいの害であって、他方利益は全体としてこれくらいなので、利益と害の差がコストに見合うほど大きければやったほうがよい」という枠組みに回収されてきます。

ここ重要なので2回言います。よほど極端な場合を除いて、ワクチン事業の是非は、利益と害のバランスによって問われます。それが何を意味するか。

害についてはわからないという設定にしましたので、利益についても深追いはしないでおきます。こちらも(日本以外の国では、こちらこそが)たいへんな泥沼になってますので。争いのなさそうな範囲で言うと、HPVワクチンでCIN2は減ります。これは多くの実験結果から明らかと言っていいと思います。CIN2とは何かを説明するとそこにエネルギーを持っていかれるので、説明しません。検索してください。CIN2が減ったことを示す論文も挙げません。検索してください。

で、HPVワクチンを広めたい人は「がんが減る」と言い、広めたくない人は「がんが減らない」と言うわけです。もちろん個々の例外はいろいろあるでしょうが、そういう応酬がなされてきたことは事実です。

要するに利益についても害についても、声の大きい人たちは「利益が大きく害が小さければやったほうがよい」という枠組で一致してるわけです。そこでは価値観とか考え方みたいなものは争われていなくて、一見したところ、純粋に事実が争われている。だから普通に考えて客観的な正解と客観的な決着がありそうに見えるし、どちらの陣営も「私たちこそが真実を知っている」という姿勢をとっている。

で、ぼくが見る限り、どちらの人も、「自分たちが他方を説得できていない」という事実に向き合っていない。そもそも目的意識が統一されていない。

子宮頸がんを予防するのが目的なのか、エビデンスに基づく科学的思考(ができる俺)の偉大さを知らしめるのが目的なのか、マスコミ叩きが目的なのか、自然派ママを馬鹿にするのが目的なのか。
副作用に苦しむ人を新たに出さないことが目的なのか、いま苦しんでる人を救済するのが目的なのか、自分が強制的に打たされないことが目的なのか、マスコミ叩きが目的なのか、製薬企業の悪(を知ってる俺)を知らしめるのが目的なのか。
どれを優先するかによって戦略はまったく違ってくるはずですが、大きな目で統合された運動としてはまとまっていなくて、めいめいバラバラにやっているのが現状だと思います。
だからこそ「客観的」という概念が宙に浮いている。誰もが認めざるをえないのが「客観的」だったはずですが、認めていない人が現にいる以上、それは「客観的」として機能してないんですよ。「ある人はAが客観的事実だと言い、別の人は反Aが客観的事実だと言う」という状況を見た人は、「A派と反A派がいる」としか理解しようがないんであって、話の内容から「Aが本当に客観的事実かどうか」なんて判断できっこないですよ。

※「だから情報の真偽を判別できるリテラシーが…」という話は無効です。「しかじかの根拠があればAを客観的事実とみなすことができる」という考えの是非をめぐって分裂が起こり、無限後退するだけです。

そういう状況でいかに「エビデンス」を説いても説得できないので、ふたことめには医師免許を持ち出すわけです。ちなみにぼくは運転免許を持ってます。

と、もはや「おまえは敵か味方か、選べ」といきなり突きつけられるところから始まる(そしてそれで終わる)感じを呈しているわけですが、そもそも対立点はそんな微妙な事実だったかしらんとも思います。

いろんな問題があるとはいえ、具体的には厚生労働省の「積極的勧奨の差し控え」という煮え切らない態度が焦点だと思います。

そして、積極的勧奨という言葉はどういう意味かというと、具体的には「お知らせハガキの一斉送付」のことだったりします。

参考:https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/hpvv-cin3

ハガキを送るかどうかなんて細かいこと、政府が方針を出さなくても、全国で統一しなくても、自治体ごとに勝手にやればよくないかと思いますが、まあ、そこには象徴的な意味合いが生まれてしまうわけです。公費になるかどうかというのも、そんな無茶苦茶な値段じゃないんだしほかの税金の控除とか助成金のためにいちいちハガキとか来ないのでは、というかほかの主体から補助を出してもいいのではと思いますが、やはり象徴的な意味合いが生まれてしまいます。というかすでに「打ちたい」と思ってる人は論理的に勧奨されようとされまいと関係ないのではとも思いますが、やはり象徴的な意味合いがありますね。

要するにHPVワクチンをめぐる対立は、言葉の上では客観的事実を争っているようでいて、実践的にはお墨付きを争ってるんですね。お墨付きがなくても主体的に意思決定する人は無視されています。「わからないけど、やる」とか「わからないので、やらない」といった判断は想定されていない。いっそ特別扱いをやめてあらゆるワクチンと検診の案内ハガキを廃止し、カルテを持っている医療機関が好き勝手におすすめするようにしたらいいのではと思わなくもないですが、なんかそういうのは厚労省がやってくれないと気が済まない人もいるようです。

話がどうでもいい感じになってきましたね。結局打ったほうがいいのかどうか。それにはなるべく触れずにいたいのですが、これだけ言ってぼくの立場を表明しないわけにもいかないと思います。

打ってください。

理由は書きません(どんな場合が禁忌かも書きません)。書くと論点がぼやけますので。ただ同時に断っておきますが、この文章はただの個人ブログなので(ぼくが運転免許を持っているとはいえ)、そんなものに判断をゆだねる習慣はやめたほうがいいです。そっちのほうがHPVワクチンよりはるかに深刻だと思います。

話を戻して、お墨付きを争うという事態が何を意味するか。自分が打つかどうかは自分で決めればいいですね。つまり、お墨付きとは他人に「おまえも打て」と言うことの正当化を意味しますね。

で、ここに最近おなじみになった風景が重なるわけです。つまり、自粛警察とHPVワクチンの話はよく似ている。特に強制されてない「自粛」のはずなのに、他人が「自粛」してるかどうかが気になる。「要請」すなわちお墨付きはある。効果と害は正直よくわからないけど、お墨付きがあるしやらなきゃいけないんだろうということになっている。で、「自粛」しない人を見るとイライラする。「もっと強制してよ!」という話が出てくる。感性が同じなんです。

そこでずーっと戻って、「ワクチン事業は利益と害のバランスで評価される」という話がありました。その思考がそもそもおかしくないか、という話をします。

本質的に、ワクチンだろうと薬だろうと、あらゆる医療介入はギャンブル性があります。効かないかもしれないし、害が出るかもしれない。そのギャンブル性はお墨付きがあろうとなかろうと変わりません。というか、人生におけるあらゆる判断、あらゆる行動はギャンブルです。

ところが、ワクチンを打たせる立場から見ると、そのギャンブル性はきわめて希薄になり、計算可能になるんですね。「何万人に打ったら利益を得る人が何人、害が出る人が何人」という具合に、ある程度の精度で予測できるようになります。で、全体として利益を得る人のほうが多ければみんなに勧めよう、という話になってきます。「利益と害のバランス」という思考が出てきている時点で、実は他人にそれを勧める人の視点に立ってるんです。

これ、ある意味で致し方ないところで、医学・健康関係の情報はつねに「やるか、やらないか」とセットで出されますので、「勧めるかどうか」という立場の言い方をせざるをえないわけです。

このエントリの話題はそもそも都知事選でした。選挙ですので、「勧める視点」が出てくること自体は不自然ではない。仮に知事候補が「こういうワクチンを推進します」と自分で言い出したなら、賛成なり反対なりと言えばいい。それは健全なことだと思います。

で、山本太郎はどうかというと、少なくとも都知事候補特設サイトにHPVワクチンの話は出てきていません。都知事選の争点ではないと考えている、とみなしてよいと思います。
選挙では黙っておいて当選したら不意打ちするつもりでは…とかの想像はしていいのかもしれませんが、前述のとおり、HPVワクチンの問題というのは実践的にハガキの問題なわけです。いま送ってないものを、反ワクチンの都知事が誕生したら送らない以上のことにする、というのはちょっと無理な想像に思えます(「HPVワクチンを打たないでください」というハガキを送るとか言い出したらそんな無駄遣いはやめたほうがいいと思いますが、まあアベノマスクほどではないです)。お墨付き問題については、厚労省だからお墨付きになるんであって、都知事が仮に何を言ったとしても関係ないでしょう。そんなことを言い出したら「タレントの発言をいちいち監視するほうが実効性がある」とかのダメダメな話になっていきます。腹を探るようなことではないのです。

むしろ問題にしたいのは、「反ワクチン候補を当選させるな」と言ってる人たちが何を考えてるかです。ワクチンと自粛警察は似ているという話をしました。ここでもさっそく、反・反ワクチンの人々は、他人のすることや言うことにいちいち口出しする癖を発揮しているわけです。なんでもかんでも自分と同じでなければ許せない、という感性が読み取れます。それがたまたま山本太郎の場合はワクチンだったというだけで、ほかの候補が家庭の問題を抱えていたり、評判の悪い趣味を持っていたりしたら、いちゃもんをつける人はどこからでも湧いてくるものです。

「なんでもかんでもではない、健康は特別なのだ」という反論が聞こえてくるようですが、健康という言葉だけでハガキ問題を最優先課題に押し上げてしまうのは、いくらなんでも恣意的すぎると思います。都内に限っても医療・介護・福祉関係の課題は山積みなわけで。

ぼくは山本太郎をまったく支持しません(関係ないですが小池百合子も支持しません)。しかし、山本太郎をダシにして自粛警察のメンタリティを正当化しようとする言説には、それ以上の警戒心を抱いています。

最後に。

そもそも国は現在、HPVワクチンの副作用被害を受けたと主張する人たちから訴えられていて、裁判の最中です。争われている最中の論点についてはっきりした意思表明なんて、そりゃできないでしょう。

にもかかわらず5月25日に、薬食審で9価HPVワクチン「シルガード9」の承認が了承されました。

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t354/202006/566137.html

長年日本に入ってこないことを問題視されていた9価ワクチンが、近日中には手に入るようになりそうです。
このことの意味をどう取るか。
反対意見の人はもちろん怒ってます。

https://www.hpv-yakugai.net/2020/05/22/silgard9/

が、こんなことは当然織り込み済みでしょう。
史上、薬害という言葉のもとに何がなされてきたか、知ってる人は知ってるわけですが、いまの状況を厚労省がどう考えたか。そしてその判断は何を根拠としていたか。なんとなく想像がつきます。
事実がどうあれ、今年中に新展開があるのは間違いないでしょうから、そのときにこそメディアの姿勢が問われるでしょうね。

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