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【直違の紋に誓って】終章~若木たちの行方

 翌日、天には柔らかな蒼穹が広がっていた。剛介は荷を背負うと、深々と義母に頭を下げた。
「では、行ってまいります」
 今度の出立は、戦うために行くのではない。未来を切り拓くための出立だ。そう思うと、心が弾む。
「行ってらっしゃい。いつでも、戻ってきてくださいね」
 義母は、にこりと笑った。
 
 奥州街道を北に進むと、かつて和左衛門が植林させた北谷の山林が見えてきた。ふと足を止めて振り返ると、視界の奥には安達太良のなだらかな稜線がくっきりと浮かび上がっている。まだ山の嶺には白い雪が残っているが、これから進もうとする北谷の山林は、淡く萌黄色に染まっていた。
 かつて焦土となった二本松は、新たな芽吹きの季節を迎えていた。
 十年前のあの日。先生や木村道場の朋輩が目の前で傷つけられ、それでも二本松を取り戻そうと、会津に逃れた。会津は未だ冬の名残を残しているかもしれない。だが、やがて会津にも春が訪れるだろう。
 遠藤家の人々を思うと、ふと涙が滲みそうになった。慌てて、指先で眼尻を拭う。
 剛介の子供時代を育んでくれた土地が二本松であるのならば、剛介を大人へと導いてくれた土地が、会津だった。あの時代、会津も多くのものを失った中で、生活風習の異なる他藩の子供を養育するのは、大変なことだったに違いない。
 生活苦に追われながらも、若松中学に通わせ学問を極めさせてくれた義父の清尚。猪苗代で心が死にかけていた剛介に気を配り、会津に馴染ませようと尽力してくれた義兄の敬司。一心に剛介を慕い、妹から妻へと立場を変えていった伊都。そして、大切な息子であり、恩師の名を託した貞信。叶うならば、いつか再び会津を訪れ、彼らの幸せな生活を垣間見たい。
 もしかしたらこの先、自分も新たな家族を持つかもしれない。だが、会津の人々から受けた恩は、ずっと忘れまい。これから二本松で持つであろう家族も、会津に残してきた人々も、どちらも剛介にとってはかけがえのない存在なのだから。
 ――そして、西南の役。
 あの戦いに身を投じたのが正しかったのかどうかは、今でも判断がつきかねた。あの戦いのために西南の地を踏まなければ、自ら手を汚さずに済んだ反面、薩摩への憎悪を胸に抱き続けながら、会津で暮らしていたのかもしれなかった。
 だが、二本松に戻ってくることを選んだのは、自分だ。西南の役は、薩摩への怨讐を乗り越え、剛介が新たな道を歩む決心をさせてくれた戦いでもあった。取り立てて喧伝することでもないが、戦いの本質を教えてくれた野津大佐や、たとえ戦の勝者であっても、犯した罪の意識からは逃れられなかった宇都の姿は、剛介にとって忘れ難い薩摩の人々だった。
 自分がこれから育てていくであろう次の種子たちには、戦の怨讐に囚われることなく、また、諍いを起こさないような智慧を持つ者になってほしい。自分も二本松の大人として、真の智慧を持つ御子たちを大切に育てていこう。自分が二本松や会津の大人たちに教えられたように。  
 戊辰の戦いでは、多くの者が犠牲になった。だが、二本松の全てが滅んだ訳ではない。かつての二本松の御子らは、傷つけられながらも、なお、この地を守ろうとそれぞれのやり方で歩みを進めている。その事実は、剛介にとっても誇りだった。そして、自分もこれからの二本松の育て手になる。
 もう、剛介も戦場に立つことはないだろう。
 これで、良い。
 剛介は、再び前を向いて、力強く歩を進めた。


 戊辰の戦いの後。あの時戦った者のうち、ある者は医師となって活躍した。木村道場で大砲の点火係だった虎治は、外科医になり、赤十字病院に勤務した。また、別の者は地方の長となって、郷土の復興に尽力した。剛介の甥である平島太郎八は、平島松尾を名乗り、上京して河野広中の右腕として活躍。帰郷後は、福島県の自由民権運動に参加し、最終的には代議士になっている。
 かつて少年たちが演習を重ねた青田ケ原は、その後、安達地方の振興の為にと刀を鍬に持ち替えた者たちによって耕され、美田へと生まれ変わっていった。二本松少年隊関係者では、剛介と共に砲術を学んだ大島七郎が、駒場農学校卒業後に青田ケ原開墾事業に従事。後に福島県農事試験場の技手になった。

 大正六年七月。少年隊の一人であった水野良之は、会津の白虎隊が「薩摩琵琶に弾じ、浪花節に歌い、あるいは演劇に脚色して武士道鼓吹の資と為せるを以て、人口に広く膾炎せざるなきに至れる」現状を憂い、戦後五十年の法会の席で、出席者に一冊の本を配った。
 それが、「二本松戊辰少年隊記」である。
 少年たちが二本松の為に戦ったのは、自藩への忠義と誇りからである。だが、決して綺麗事ではなかった。後世の者に、自分たちのような思いを、させてはならない。その思いが、重く閉ざしていた口を開かせたのだろう。時は、日本が第一次世界大戦の戦勝国として、祝賀の雰囲気に浮かれているときであった。そのような中で、隣藩の悲劇が美化されて「誤った武士道」が広く膾炎されている実態を、彼は憂慮したのではないか。
 同じく二本松藩の為に、戊辰戦争当時十九歳で出陣した佐倉強哉氏は、昭和六年に発行された二本松少年隊のパンフレットの中で、次のような文を残している。
「戊辰の戦雲収まって六十余年。我が二本松藩は忘れられていた。それは丹羽氏は忝なくも皇胤の末葉なるにあいなくも賊名を負ったのに惶懼して辯解の辞を発しなかったからではあるまいか。時運ここに還り来ってその真相の一端を述べうるのは幸であると思う」
 
 かつての武谷剛介こと今村剛介氏は、その後、教師として多くの子供たちを世に送り出した。彼もまた、折々につけて二本松少年隊の事実を伝え、二本松の武士道に誇りを持ちつつも、決して戦いを美化しなかった一人である。
 昭和十五年。二本松少年隊の最後の生き残りとして、今村剛介氏はその生涯を閉じた。享年、八十六歳。戒名、誠忠院義徹良剛居士。

【完】

参考~二本松少年隊名簿

$$
\def\arraystretch{1.5}
\begin{array}{l|l|l|l|}
\textbf{姓名}& \textbf{年齢}& \textbf{所属隊} &\textbf{死傷}\\ \hline
久保 豊三郎& 12歳& 木村隊& 負傷\\
上田 孫三郎 &13歳& 木村隊&\\
伊藤 孝蔵 &13歳\\
高橋 辰治 &13歳& 木村隊& 戦死\\
遊佐 辰弥 &13歳& 木村隊& 戦死\\
徳田 鉄吉 &13歳& 木村隊 &戦死\\
大島 七郎 &13歳& 木村隊 &負傷\\
森 辰造 &13歳\\
加藤 犬蔵 &13歳\\
岡山 篤次郎 &13歳& 木村隊& 戦死\\
成田 達寿& 13歳\\
小川 安次郎 &13歳& 木村隊& 負傷\\
沢田 勝之介& 13歳\\
後藤 釥太& 13歳& 木村隊\\
高根 源十郎 &13歳& 丹羽右近隊\\
成田 虎治 &14歳&木村隊\\
武谷 剛介& 14歳& 木村隊\\
西崎 銀蔵& 14歳& 高根隊\\
全田 熊吉 &14歳& 木村隊\\
宗形 幸吉 &14歳& 木村隊\\
堀 良輔 &14歳\\
成田 才次郎& 14歳& 木村隊&戦死\\
馬場 定治& 14 歳&木村隊\\
青山 卯之吉& 14歳\\
水野 進& 14歳& 木村隊\\
鈴木 松之助 &14歳& 木村隊\\
木村 丈太郎 &14歳& 木村隊& 戦死\\
高橋 七郎& 14歳\\
渡辺 駒之助 &14歳&木村隊\\
寺西 久太郎& 14歳\\
三浦 斧吉 &14歳\\ 
山岡 房次郎 &14歳& 大谷与兵衛隊\\
山田 左馬吉& 14歳\\
山田 英三郎 &14歳\\
丹羽 寅次郎 &15歳\\
武藤 定助 & 15歳& 樽井隊\\
平島 太郎八& 15歳& 高根隊\\
奥田 午之助& 15歳& 木村隊。当初高根隊& 戦死\\
安部井 壮蔵 &15歳& 丹羽右近隊\\
鹿野 寅之助& 15歳\\
久保 鉄次郎 &15歳& 木村隊。当初大谷鳴海隊& 負傷\\
木滝 幸三郎& 15歳& 日野隊 &負傷\\
大石 岩蔵& 15歳\\
磯村 力 &15歳& 戸城隊\\
三浦 行蔵 &16歳& 木村隊& 負傷\\
浅見 四郎 &16歳\\
田中 三治 &16歳& 樽井隊& 戦死\\
根来 梶之助& 16歳& 大谷志摩隊 &戦死\\
中村 文太郎& 16歳\\
毛利 亥之次郎& 16歳\\
青山 三七郎 &16歳\\
下河辺 武司 &16歳\\
上崎 鉄蔵 &16歳& 大谷志摩隊& 戦死\\
小山 貞治& 16歳& 大谷鳴海隊\\
大関 勝弥 &16歳\\
松田 馬吉 &16歳& 大谷与兵衛隊\\
岩本 清次郎 &17歳& 樽井隊& 戦死\\
大桶 勝次郎 &17歳& 木村隊& 戦死\\
松井 官治& 17歳\\
小沢 幾弥& 17歳& 朝河隊&戦死\\
中村 久次郎& 17歳&樽井隊& 戦死\\
小川 又市& 17歳& 日野隊& 負傷\\
\end{array}\\
$$


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