私は、私が思うより愚かな人間だ。十日程滞在する実家へ向かう一週間前に、私は私から遠ざかって新しい私になった。 この顔を見たら何て言うだろう。絆創膏で隠したところでどうしようもない。だが隠さないよりましだ。 サイズの大きすぎる絆創膏を二箱買った。封を切り、急いで“新しい私になった証” を覆うように貼った。私はこれから十日の間、私を偽らざるを得なくなった。

 家族は私の顔を見るなり「その絆創膏はどうしたの」と訊いてきた。「肌が荒れちゃって」などと適当なことを言って誤魔化した。絆創膏の位置が不自然なのだから、無理もない。そして、家族が寝静まるまで“必要不可欠な処置” すらも行えない。うっかり見られてはいけないのだ。

隠さなければならないのに、どうして私はこんなことをしたのだろう。あの日の私は“私” のことしか考えていなかったのだろう。刹那主義というのだろうか。私のの気も知らないで。

 絆創膏を一日中貼っていたことで、特有の臭気を感じている。やはりこれは体の何処であろうと存在するのだな、などと思った。この臭気を取り払うためにもまず絆創膏を剥がして、洗わなければならない。また、このことは言うべきか言わぬべきか、今でも迷っている。元々、親は世間体を大いに気にするきらいがある。今までもこれによって私の行動は制限されてきた。だが今はどうなのだろうか。私は家から出た身である。まだ親に頼っているところはあるが、ある程度は自立したつもりである(つもりなだけだ) 。 今回の“アップデート” も自分のお金で、自分で調べてやったことなのだ。だがきっと、彼らにはそんなことは関係ないのだろうか。「今は外出の際にはマスクをするから大目にみてほしい」とでも言ったら渋々でも認めてくれるだろうか。まだ安定には時間がかかるので、出来れば外したくないのである。私は我が儘だろうか、きっとそうだ。変な拘りがあって、自分で判断しては失敗する。判断は人に任せるのが一番楽だ。自分で責任を取らなくても良いし、非難されることもない。しかしそのままの私ではきっと後悔するだろう。そう思って私が“判断” した結果がこれだ。もう、どうしようか。こうやってすぐに人に訊いてしまう。自分で考えてから訊けと幾度も言われた。私だって考えたよ。考えて解らなかったから訊いたのに。自分で判断したら「どうしてこうなる前に訊かなかったの」とも言うだろうに。こんなところで愚痴を言ったって仕方がないのに。これを読んでくれる方も多くはない。それにその中の私のような経験をした人が幾人居ようか。恐らくいないだろう。仮に居たとしても、私と似た環境とは限らない。もしかしたらその人は受け入れてもらえたのかもしれない。私とは違う人間なのだから当然だ。誰もが私と同じ境遇にあると思うなよ。そんなものは戯れ言だ。私が判断した結果なのだ。故に受け入れるべきは私なのだ。

「でもでも、だって……」と迷うなら言わなければ良い。迷いながら打ち明けたところで、誰も幸せにはなれない。残りの時間が暗く煩く怖い時間になるだけなのだから。それと、このことを話してしまったら、私に協力的だった人を裏切ることになる。そうはしたくない。私を受け入れてくれる人を悲しませたり、怖がらせたりすることだけは絶対に嫌だ。私はこの先の人生で幸せになれるかどうか分からない。私が幸せになれなくても、せめて私を受け入れた人を幸せにしたい。育ててくれたことへの感謝はあれど、生まれてきたことにはそれほど明るくなれない。いつか来る終わりに怯えて、深夜三時に目が冴えてしまう数日間。“私” は“私” が思い描く理想にほんの一歩でも近付きたいだけだ。血縁があれど、自分以外は皆他人なのだから、私の人生は私が生きて、私のまま終わりたい。どうせならそうでありたい。

葉月の夜は虚しくて悲しくて、どうしてもそんなことばかり過ってしまう。まだ早い未来のこと、私がやりたいこと、そのために必要なこと……これは全て私が自分で決めねばならない。少しずつ、ゆっくりではあるが脳内にそのイメージを浮かべている。このことを話したら、ある人は笑い、またある人は止めるだろう。陰で何かを言われるかもしれない。「現実を見ろ」と言われるかもしれない。しかしながら、私が生きている今は私にとって現実である。私が抱いた幻想もいつか、いつか現実と混ざりあって私を構築するかもしれない。

 そんなことを考えて口角が上がると、絆創膏が邪魔をする。そうだった。少しの間、忘れていた。此処では“私”ではないのだった。頃合いを見計らって、刹那の時間だけ“私” に戻るのだ。きっと今宵も遅くなるだろう。私が私でありたい為に。

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