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日本の 被差別民政策と 組織犯罪:同和対策事業 終結の影響

J・マーク・ラムザイヤー、エリック・B・ラスムセン

概要

1969年、日本政府は「部落民」のための大規模な同和対策事業を開始した。同和事業は暴力団を引き付け、組織犯罪によってすぐに得られる高収入は、多くの部落民を引き付けた。そのため同和事業は、多くの日本人が部落民を暴力団と同一視していた既存の傾向を後押しすることになった。政府は2002年に同和事業を終了した。

我々は、30年間の自治体データを、長く封印されていた1936年の全国部落調査と結合することにより、同和事業終了の影響を調査した。同和事業終了後、部落民による市町村からの転出が増加していることがわかる。一見して、同和事業は若い部落民が主流社会に加わることを抑制していたようである。また、政府による様々な助成が終了したにもかかわらず、同和事業終了が近づくにつれ、部落近隣の市町村では不動産価格が上昇したこともわかった。同和事業がなくなり暴力団が撤退すると、一般の日本人は、かつての被差別部落が魅力的な住環境であることに気づくようになった。

Ⅰ. 序

2002年、日本の国会は部落民を対象とした大規模な特別施策の試みを終了した。日本において「部落民」は歴史的に差別に直面していた人々のことである。1969年「同和対策事業特別措置法」の下、国および地方自治体は巨額の補助事業を開始した<注1:”Burakumin” は英語で最も一般的に使われる用語である。この言葉は20世紀前半に日本で広く使われていたが、現在は「同和」と呼ばれる。>。2002年までに、政府は15兆円(2002年の為替レートで1250億米ドル)を費やしたが、特措法上の事業以外でも多額の資金を費やした<注2:15兆円は、この分野の書籍で常に引用されている数字である。例:角岡(2012:38,69)。一ノ宮とグループK21(2012:126)、森(2009:78)。この図の元の出典を特定することはできなかった。しかし、内閣府の調査(1995)において、1993年時点で市町村が10.3兆円、都道府県が3.56兆円を費やしていると報告されている。注12も参照のこと。>。同和事業に関連する贈賄、歪んだ雇用、恐喝的行為による支出、および税収の喪失は、その社会的費用をさらに押し上げた。

部落民の多くは、伝統的に肉屋や革なめしなどの汚れた仕事をしていた人々の子孫だった。未だにそのような仕事に就いている人々もいた。生物学的に他の日本人と区別はつけられないが、大抵は居住地によって識別可能であった。つまり、日本に5,000から6,000ヶ所点在する穢多・非人コミュニティである「部落」に彼らまたはその家族が住んでいたかどうかで識別された。最大規模の部落は有名であるが、そうでない他の部落は、長年近くに住んでいる人たちだけが知っていた。

これらの、対象を定めた同和事業を使って、政府は集会施設と公営住宅を建設した。建物は住宅戸数を改善したが、政府はそれらの地域を同和地区として明確に特定した。さらに悪いことに多額のお金は、「ヤクザ」と通称される犯罪組織を引き付けた。犯罪組織に属する部落民は、部落民による市民団体を標榜する部落解放同盟(BLL)で主要な役職に就いた。そこで、彼らは政策を主導し、行政当局を脅迫し、同和事業に反対する者の口を封じ、そして同和事業を彼らの私的財産に流用した。

その結果、大部分は部落解放同盟自身が認めていることだが<注3:例えば角岡 (2004, 2005, 2009, 2012)、宮崎(2004)、宮崎と大谷 (2000)。>、部落民の指導として選ばれた者と犯罪組織に多額の政府資金が流用された。ある市では優遇された企業と建設契約を交わした。そして部落民の有力者から高騰した価格で建物の土地を購入した。国税局は、部落解放同盟によって認定された企業の確定申告を精査しないことを約束した。ある市役所は、部落解放同盟が選んだ部落民を雇うことに同意した。大企業は差別糾弾を避けるためにお金を払った。そして関連団体は、莫大な収入源の管理をめぐって互いに激しく争った。

さらに皮肉なことに、この事業は部落民の男性が合法的な仕事から離れるのを助長した。若い部落民にとって同和事業は、相対的に収益源を合法な職業と違法な職業の間で転換させた。新たに生じた犯罪収益を考慮にいれたところ、多くの若い男性は、日本の主流派に加わるために不可欠な教育投資よりも、違法な活動を選択した。多くの部落民が暴力団に加わったので、主流派の日本人は恐怖のため彼らを避けた。すなわち、暴力団の関与自体が差別を引き起こしたのである。

本稿では、2002年に同和事業を終了するということを決めた1996年の政府決定の結果を検証する。同時期に、政府は積極的に警察権力を行使することにより暴力団の指導者に直接打撃を加えることを決定した。政府は、部落における腐敗と、暴力団が深く関与することを阻止するために戦った。そのために、同和事業をやめ、暴力団を警察により摘発した。これらの同時期に行った政策の相乗効果を検証する。

30年前のこの事業を開始するという政府の最初の決定については、本稿では検証していないことに留意する必要がある。終了の影響に関する私たちの分析は、必然的に、その発生の影響と、その作成と打ち切りの背景にある党派力学について平行した質問を提起するが、本稿では事業の終了の影響に限定して検証する。

この調査では、長く出版禁止されていた1936年の全国部落調査を使用し、5,000余の伝統的な部落民のコミュニティを特定する。日本の1,700余の市町村について、1980年から2010年までの人口統計および経済データと、全国部落調査を組み合わせている。日本は全土で市町村が組織されているため、これには農村部も含まれる(訳注:米国では市町村に相当する地方政府がない地域が当たり前のように存在する)。「差分の差分法」を使用して、同和事業の終了の影響を検証する。

その論法は単純である。若い部落民の男性は、主流なもの(合法)と傍流のもの(しばしば犯罪である)のどちらの職業を選んだかどうかである。前者は教育への多額の投資を必要とし、後者はそれを必要としなかった。前者は部落民に向けられる一般市民の敵意を下げ、後者はそれを悪化させた。 2002年以前は、同和事業は部落民に対する一般市民の敵意を高め、部落を離れて日本の主流社会の職業に加わることによる相対的な利益を下げ、犯罪へ加わることによる利益を高めた。同和事業が終了すると、それらの相対的な利益(リターン)が切り替わった。意欲的な部落民は今では大学進学を機に部落を離れ、二度と戻らない。暴力団と部落解放同盟は構成員を大量に失った。そして一般の日本人は、かつての同和地区が、住む場所としてより魅力的であることに気づいた。

この論文は2つの部分から成る。1つめは、同和対策事業の制度的構造と効果についての非統計的な議論から始め、社会的背景を説明する(セクションII):部落民(セクションII.A)、組織犯罪シンジケート(セクションII.B)、および2つのグループ間の関係の変化(セクションII.C)。次に、警察の取り締まり(セクションIII)と関連する腐敗の性質(セクションIV)について説明する。2つめに、データについて説明し(セクションV)、「差分の差分法」を使用して、同和事業の終了が移住と不動産の価格に与えた影響を調べる(セクションVI)。

II. 部落民と犯罪組織

A. 部落民

1. 序

研究者は、部落民を、肉屋、皮なめし職人、皮革労働者、行商人など、伝統的に汚れた仕事や評判の悪い仕事で働いていた人々の子孫であると説明することが多い(詳細はセクションII.A.5を参照)<注4:韓国の「ペクチョン」もほぼ同じ状況に直面した。しかし、朝鮮戦争中の大規模な混乱と家族登録制度(戸籍)の崩壊は、それらを識別可能な集団としては消し去ったようである(アノン2012)。韓国のペクチョンに対する差別がまだ存在していると主張する作家は、ほとんどが部落解放同盟に関係する日本の学者であるように思われる(コテク2009)。>。デビッド・ハウエル(1996:178)が述べているように、部落民の祖先は「穢れていると考えられる職業、特に死の穢れを伴う職業に従事した」。幕府は部落民を、武士、農民、職人、商人の4つの主要階級の下に置いた。1871年、近代化された政府は部落民を「解放」したと宣言した<注5:「穢多非人の称を廃し、身分・職業とも平民同様とす。」1871年10月12日の太政官布告、非公式に解放令として知られる。 ファー(1990:77)を参照のこと。ハンキンス(2014:21)、アップハム(1980:41)、トッテン&我妻(1967:34)。>。しかし、ほぼ同時に、新設された市町村に戸籍を創設した。これらの戸籍は、新しく解放された部落民を「元穢多・非人」、「新平民」、または穢寺所属、と記載することがあった。したがって、最も正確な定義によれば、部落民とは、1870年代初頭の戸籍で部落民として記載された祖先を持つ人のことである。この戸籍は現在、一般公開されていない。

現在の日本の人口1億2700万人のうち、部落民は約180万人である。 1936年、政府は全国部落調査を作成した(中央融和 1936、セクションIV.Cで説明)。それによれば、部落民は999,700人だった<注6:以下で説明するように、この数値はほぼ確実にいくつかの部落を見逃している。 1871年、政府は部落民の総人口を38万人と報告した(角岡 2005:24; Price 1967:24; デボスと我妻1967b:115)。 1920年の人口は83万人と報告されている。中央融和(1936:336)を参照のこと。プライス(1967:24)、デボスと我妻(1967b:115)。>。2010年までの日本の人口増加率を想定すると、180万人という数字が導かれる<注7:一部の作家は、部落民の増加率が一般社会の人口よりも高いことを示唆している。出生率の違いによるものは、同盟によって部落民となった一般の最貧層の部落への移住によるものではない。一般的にプライス(1967:13)を参照のこと。 デボスと我妻1967b:114)。>。政府は1975年に別の同和地区実態調査を実施したが、その時は、同和対策事業で指定された4,374の地区に110万の部落民がいた<注8:朝日(1982:81)。 1963年、政府は指定された地区に170万人(部落民と一般民)が住んでいることを発見した(角岡2005:29)。内閣(1995)は、1993年に指定された4,603地区のうち4,442地区に216万人(一般民を含む)が住んでいると報告している。地区の部落民人口は892,000人であった。その他の同和地区実態調査については、塩見(2012:106 [1987]、107 [1993])を参照のこと。高木(1997:48)(1986)、山口(2004)(90万人を主張)。>。おそらく、70万人の部落民は、同和地区指定されていない部落に住んでいたか、一般地区に移動していたようだ<注9:部落解放同盟自体は、部落民の数は300万人、時には600万人であると主張しているが、主張の根拠が不足しているようである。たとえば、アップハム(1980:63)を参照のこと。部落差別(出版年記載なし)。 デボスと我妻(1967b:117)は、次のように書いている。「現在の部落民の推定人口は100万人から300万人までさまざまである。高い数字は、左派の部落指導者によって政治目的で使用されたようであり、確固たる証拠なしに確立された事実として科学文献に掲載されている。」 同じ効果については、プライス(1967:11)を参照のこと。>。

対象を絞った同和対策事業を通じて、1969年に国と地方自治体は部落民に多額のお金を給付し始めた<注10:同和対策事業特別措置法 1969年法令第60号>。立法府は、元の制定法を10年で失効するように設定していたが、さまざまな延長および代替制定法を通じて、事業は2002年まで継続された<注11:地域改善対策特別措置法 1982年法令第16号。地域改善政策に関する特別国家財政措置に関する法律、1987年法令第22号。>。それが終わるまでに、政府は15兆円を分配した<注12:1969年には、1ドルは約360円に相当。 2002年までに約120円になった。>。 1969年から2000年まで、大阪府だけでも2.9兆円を費やした。このうち、建設事業に35.5%(1兆190億)を投資した<注13:角岡 (2012:38, 69, 96)、一ノ宮とグループK21 (2012:25, 126)、森 (2009:78)。>。この事業は部落民の住宅戸数を改善したが、組織犯罪をも引き起こした。有権者が、その後の腐敗を阻止するために、政治家に同和事業を終了するよう圧力をかけたのではないかと我々は思っている。公式には、部落のインフラが主流社会と同じレベルに達したため、政府が同和事業を終了したと宣言している。理由が何であれ、国会は2002年に同和事業を打ち切った。

2. 統合

実は、「被差別部落」という言葉は長い間誤解されてきた。部落民の子孫ではない人々も部落に住んでいる。多くの住民は、家賃を安くするためにそこに引っ越しただけで、今日、部落は混住している。 1993年の政府調査によると、部落に住んでいる人のうち、部落民は41.4%だけであった。都道府県の平均の範囲は、九州のある県の2.7%から、中部地方のある小さな県の97.9%までである。部落民が多い都道府県は、指定同和地区住民の56.9%が部落民である兵庫県(神戸市がある)と、九州最大の県で36.6%が部落民である福岡県の2つである(角岡2005:57、内閣1995)。

1960年代後半以前は、部落を離れて主流社会に移った部落民は、部落内の中流階級か、部落のエリート家族の次男以降の傾向があった。エリート家族の長男は部落を離れなかった(ドナヒュー1967、コーネル1967:178)。長男は家族の財産と部落内の役割を継承した。部落内の底辺層の部落民も離れなかった。彼らは主流社会に溶け込むために必要な教育と社会的スキルを欠いていた。ある新聞記者は、1980年代初頭の中年の部落女性との会話を思い出した(角岡2004:65–66)。

もしあなたが8年前にここに来ていたら、私はおそらくあなたにお茶を出さなかったでしょう。当時はまだ字も読めませんでした。部落の外から人が来たとき、私はただ途方にくれてうろうろしていました。私は自分に問いかけていました。私はお茶を出すべきなのか? デザートを出すべきなのか? しかし、私には分からないのです。通常人々は何を飲むのだろう? 通常何を食べるのだろう? 私はとても怖かったので、家の中に隠れました。…できることなら、町に引っ越して住みたいです。でもご承知のとおり、それは怖すぎます。町の人々は教育を受けています。そして、私は彼らに何を話したらよいのかわかりません。私は本当にこの村を離れることができないのです。

3. 部落の場所

同和事業の下で給付を受けるために、被差別部落を政府に登録する必要があった。ただ、すべてがそうだったわけではない。政府の1936年全国部落調査(中央融和1936)では、5,367の部落で999,700人の部落民を数えた(全国部落調査の信頼性についてはデータの部分で後述する)。 1993年までに、政府は4,603の部落を登録した(角岡2005:30–36、内閣 1995)。これは1936年調査の85%である。

ほとんどの被差別部落は規模が小さい。 1936年に報告された地区のうち、2,067(38.5%)の世帯は10世帯以下であった。全国部落調査によると、1993年の時点で被差別部落が特措法による給付を受け取ることを選択しなかった8つの都道府県のうち、3つは1936年に部落民の居住地がまったくなかった。5つは1936年に309の部落が存在していたが、規模が小さく、そのうち246(79.6%)は10世帯以下であった。

居住地はばらばらに分布しているわけではない。表1に都道府県別の分布を示す。日本では標準的な方法を使用して、都道府県を地域ごとにグループ化し、北東から南西に向かって大まかに並べる。図1に、この分布を日本地図に示す。最も黒い領域は、部落民の密度が最も高い都府県である(後述の「部落民」変数を使用)。 1993年に部落が指定されていない東京以外の7道県は、日本海沿岸の北東部である。部落民は主に中西部、大阪、京都、神戸周辺、瀬戸内海に面した都道府県、北部九州に居住している。

大阪と京都の部落は巨大である。 1936年、京都、大阪、兵庫、奈良、三重、和歌山、広島には1,401の部落民地区があった。そのうち159世帯(11.3%)が10世帯以下であった。 1936年の京都の3つの最大の地区の世帯数は、653、955、および1,815である。大阪で最大の3つは881、1,017、2,683世帯である。 2,683世帯の部落人口は17,435人であった。 1936年には、大阪におけるこの単一の地区と同じくらい多くの部落民の総人口を持っていたのは、7つの都道府県だけだった(中央融和1936)。

4. 部落民の特定

アメリカの研究者は皆、部落民を特定する方法について困惑している。微妙な文化の違いが存在する(友常 2012:4章)。仏教では、部落民は浄土真宗の檀徒であることが多い(角岡2005:65–70;若妻1967:89b)。神道では、白山神社を崇敬していることが多い(前田2013)。部落民はより頻繁に牛肉産業で働いている(ファー1990:79)。革なめしと関連して、部落民は伝統的な和太鼓を作製する傾向もあった。部落民は独特のバラードと歌を歌った。貧しい部落民の中には、やや特異な方言を話す人もいた(佐々木とデボス 1967:135、ドナヒュー 1967:149)。それより他の違いは、ごくわずかであった。

部落民を正確に(必ずしも部落民自身の心の中でではなく、調査員の心の中で正確に)特定するために、調査員は、誰が1870年代の戸籍に「新平民」の祖先を持っているかを確認する必要があった。しかし、国会は差別をなくすため、1970年代に戸籍の一般閲覧を廃止していた。メディアは、まれに他人の戸籍を不法に閲覧する人がいる事件を報道し続けている。ただし、法律上、家族と特定の人たちだけが誰かの戸籍を閲覧することができる<注14:富永 (2015:27–28)、 角岡 (2016:15)、戸籍法 [家族登録法],、1947年法令第224号第10条, 10-2。>。

戸籍が閲覧禁止になっているため、調査員は対象者またはその両親がどこに住んでいるかに注目する必要があった<注15:もちろん、これはある程度以前にも起こった。 デボスと我妻(1967b:118)を参照のこと。デボスと我妻(1967c:246)。>。将来の義理の息子や娘の身元を確認したい父親は、自身でそれを行うか、経験豊富な探偵事務所(興信所)を雇うことができる。雇用主は、求職者の身元を確認するために、興信所を雇っておくことさえあるかもしれない(富永2015:57)。探偵はこれをどこでも公然と行うことができるわけではない。大阪は1985年にこの興信所サービスを禁止し、熊本、福岡、香川、徳島がそれに続いた(角岡2005:43–44、富永2015:55)。いずれにせよ、このサービスは安くはない。ある記者に、探偵は身元調査に50万円(約5,000ドル)の価格を見積もった(富永2015:36)。

政府が1970年代に戸籍を閲覧禁止したことにより、2つの横断的現象を引き起こした。1つめは、進歩的な部落民が部落を離れて日本の主流社会に溶け込みやすくした。2つめは、部落に住む一般民が差別に直面する可能性が高まった。部落に住んでいる人のうち、部落民が半数未満であることを思い出してほしい。差別者が家族の戸籍を閲覧できる限り、部落民と一般民を区別することができた。戸籍の閲覧禁止後、差別者は部落民であるかどうかの識別に、本人の住所と両親の住所を使用する以外に選択肢がほとんどなくなった。

図1. 部落民の地理的人口密度

図は、日本国内の部落民人口密度を示す(本文セクションVで詳述する部落民変数を使用)。濃い地域(大阪、兵庫、和歌山、愛媛、福岡)が、高い人口密度の都道府県である。

新聞記事や調査は、後者の効果を確認している。あるジャーナリストは、部落民かどうかをどうやって決めたのかを探偵に尋ねた。すると探偵は「両親が部落民だったら」部落民だ、「あるいは部落出身だったら」と答えた。結局のところ、「彼らが現在部落に住んでいるなら、彼らは部落民だ」(角岡2005:50、2016:50)。 2005年の大阪の調査でも同じ質問があった。回答者のうち、50.3%が本人の住所、38.3%が本人の自宅(本籍)の住所、その他が本人の両親または祖父母の住所を確認したと回答した(富永2015:35) 。

5. 現代の学術研究

英語で書かれた部落研究で最も網羅的でバランスの取れたものは、東京大学民法教授(訳注:我妻栄のこと)の息子である我妻洋とジョージ・デボス(デボスと我妻 1967a)による1967年の民族誌的古典である。同和対策事業の直前に、我妻、デボス、および数人の共同研究者が、都市部と農村部の、安定したまたは過渡期にある部落に関する詳細かつ幅広い研究をまとめた。

我妻-デボス以降の学者は、一般の人々の間と部落民を自認している人々の間の両方において、部落民の定義の違いを強調する傾向がある。調査員は、家族が何世代にもわたって部落に住んでいたかどうかを尋ねることがある。そして部落の居住者は、家族の先祖に19世紀後半に差別された人々が含まれていたかどうかを尋ねることがある。これは1870年代の戸籍を追跡することによる定義である。それでも、戸籍で特定された部落民でさえ、肉屋、皮なめし屋、葬儀屋以外の職業の人が含まれていた。一部の地域では、様々な重大犯罪を犯した人々が含まれていた。他にも、行商人や芸能人が含まれていた。部落民の範囲は部落ごとに異なるものであった。

これらの違いは、19世紀の日本の地理的多様性を反映している。これらは、ラジオや鉄道の時代の数年前、現代の通信と輸送革命の前であり、良くも悪くも、以前の職種の多くを消し去っていた。前近代の部落は、今日の趣のある郷土料理だけでなく、幅広い側面にわたって大きく異なっていた。部落間の違いは、一般集落も包括した集落ごとの違いを反映していた。賎民へ追いやられた家族の種類の違いも反映していた。

現代の民族誌学者は、部落民の性質についての争点を詳細に調査している。人類学者のジョセフ・ハンキンス(2014)は、部落民の皮なめし工場で数か月働き、さらに多くの月日を部落解放同盟の人権部門でインターンして過ごした。彼は、部落民の労働者が自分自身を特定する方法、他の人が彼らを特定する方法、そして部落解放同盟が部落民の主義主張を国際人権運動に統合しようとした試みを詳細かつ細心の注意を払って研究した。彼は特に、日本をより「多文化的な」社会に変えるための同盟の取り組みを調査した。

社会学者の筒井清輝(近日公開)は、部落解放同盟の国際人権活動とその自己アイデンティティとの関係を研究した。 「グローバルな人権」のための仕事は、「地域の社会運動」に「構成的かつ変革的な影響」を与える可能性があると筒井は書いている。部落民の場合、「グローバルな人権」は「変革的影響」をもたらし、最終的には彼らの社会運動を「構成し、再構成する」ことになる。

クリストファー・ボンディー(2015:3)は、部落の自己同一性も検証した。彼は、部落解放同盟は「部落民の誇りを奨励し、差別が見つかったときはいつでもどこでも差別に対抗することを決意している」と説明した。彼は、主要報道機関が部落民に関する報道をしばしば回避する方法について議論し、「メディアは、部落問題の一般への露出を沈黙させる機関である」と結論付けた(2015:6)。

アラステア マクロラン(2003)は、部落解放同盟が彼のために選んだ部落民21人に取材した。取材した話を詳述した後、マクロラン(2003:113)は、「部落解放同盟は明らかに[X]部落住民の擁護者であると結論付けた。この非常に強力な組織が、部落住民の状況を改善するためにたゆまぬ努力をしてきたことは間違いない…」

ジェフリーバイリス(2013:1)は、より歴史的なアプローチを取った。彼は「(部落民が)苦しんでいる搾取、偏見、疎外」について語った後、部落解放同盟の対応に目を向けた。解放同盟員は「(彼らの)待遇と戦うための闘争」に従事している。彼らが差別者を「糾弾」するとき(バイリス 2013:2 n2)、彼らは「部落および運動のより広い政治的目的の両方に働く」ポリシーを組み込むためにそうしているのである。

イアン・ニアリー(2010)は、初期の部落解放同盟リーダーである松本治一郎の伝記で同様の歴史的アプローチを採用した。彼(2010:1)は、大部分を前向きに描写した。松本は「彼と仲間の部落民が日常生活で遭遇した偏見と差別に反対する運動を行った」。

フランク・アップハム(1980、1984)は、同和対策事業自体の、特に最初の10年間に焦点を当てた。アップハムは(1980:204)事業を「積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)」と表現し、「糾弾」会を「活動的で、参加型の個人による正義の実現」と表現した。同盟の前身である「水平社」は、「マルクス主義とキリスト教の哲学に強く影響されている」と彼は付け加えた(1984:187)。

私たちは、これらの研究で採用された多次元的アプローチに異議を唱えたり、多くの部落解放同盟指導者の人道的本能を否定したりしない。ただし、これらの問いを調査するのではなく、外部に焦点を当てる。 1969年、日本政府は被差別部落に巨額の資金を分配し始めた。 1936年の全国部落調査と、解放同盟支部の場所という、2つの異なる部落地名情報を取り上げる。次に、事業の終了が移住パターンと地価に与えた影響を検証する。

II. 部落民と犯罪組織

B. 犯罪組織

2014年の時点で、日本の警察は、より小さな下部組織の最大の連合体である21の暴力団組織を数えた。構成員と準構成員の70%以上が、3つの最大組織を占めている。最も大きいのは何十年もの間、悪名を轟かせている山口組だった。警察の記録によると、2015年に分裂するまで、山口組は総暴力団員の40%以上を支配していた(警察白書2013:図3-13; 2015:2–3、暴力状勢2009:6)。

暴力団の構成員は、一般人よりもより多くの犯罪に関与していた。警察は2014年に22,000人の構成員と準構成員を逮捕した。そのうち5,000人は覚せい剤関連の犯罪で逮捕された(覚せい剤関連が逮捕全体の55%)。その年にゆすり(脅迫と恐喝)で逮捕された5,200人のうち、1,700人が暴力団出身である(警察白書2015:4、付録表1、2–4)。

ミルハウプトとウエスト(2000、ヒル2003を参照)は、政府の政策が機能不全となるとき、暴力団が解決のために実際に役立つ具体的事例いくつか挙げている。たとえば、日本の借地借家法は、大家による入居者の退去を禁止しているが、暴力団は入居者に退去するよう説得するのに役立つ。破産法は暴力団の介入を助長する非効率性を持ち合わせている。暴力団はしばしば政策の不備からの救済をする。しかしながら、それらが実行されるにあたっての暴力的で略奪的な性質から目をそらしてはいけない。

C. 二つのグループの結びつき

1. 部落と暴力団

同和対策事業の期間中、犯罪組織は部落の重要な部分を構成した<注16:この効果は、部落民と部落解放同盟に関する英語の文献ではほとんど完全に見落とされているようだ。たとえば、筒井(近日公開)を参照のこと。ハンキンス(2014)、ベイリス(2013)、ボンディ(2015)、マクラフリン(2003)、ニアリー(2010)、アップハム(1980、1984)。>。ジャーナリストの角岡伸彦(2012:28)は、彼自身が兵庫県の部落の出身であり、この分野では最も鋭敏でバランスの取れた作家である<注17:部落解放同盟に批判的であることが多いが、角岡は部落民の知的リーダーシップの一部であり続けている。彼は明らかに、部落解放同盟の研究集会に貢献するよう招待されるのに十分な人望を、部落解放同盟自体の中で保持している。角岡(2004)を参照のこと。>。彼は何度も次のように注記している。「マイノリティグループの大多数はまじめな生活を送っていますが、犯罪組織の構成員のほとんどは確かに韓国・朝鮮人や部落民のようなマイノリティのメンバーです。」

爆弾発言のように聞こえるかもしれないが、角岡の発言と同じく、部落住民、暴力団員、警察は、部落民が暴力団の大部分を占めていると一貫して報告している。福岡に本拠を置く工藤會の幹部(2017年現在、日本の暴力団の中で最も暴力的)は、組織の構成員の70%が部落民または韓国人であるとドキュメンタリーで述べている<注18:右記を参照。 http://blog.livedoor.jp/takeru25-6911/archives/2057059.html>。角岡自身は、京都を拠点とする暴力団会津小鉄会の首領を引用し、1996年の時点で1,300人の構成員のうち半分が部落出身であると推定している(角岡2005:82–83、2009:115)。部落民の詩人・植松安太郎(1977:166–67)は、山口組の70%が部落民であると述べた。部落民ジャーナリストの宮崎学(宮崎と大谷(2000:162)は、暴力団の90%が「マイノリティ」(部落民と韓国人)であると書いている<注19:ランキン(2012)は、宮崎を「状況をよく知っている」人物と表現しているが、暴力団が圧倒的に「マイノリティ」で構成されているという宮崎の発言を見逃しているようだ。>。警察はこれらの推測を認めている。1986年に、2人のアメリカ人ジャーナリストは、警察が彼らに山口組の70%は部落民だと話したと報告している<注20:カプランとデュブロ(1986:145)。この2人の著者の日本語版ウィキペディアの記述は、おそらく出版社が部落解放同盟からの攻撃を恐れていたために、議論が日本語の翻訳から削除されたと述べている。>。2006年、元公安調査庁の職員は外国人記者クラブに60%という数字を述べた<注21:菅沼光弘による講演。2014年、講義は右のURLで利用可能。http://www.youtube.com/watch?-v5wNAJVnjlR2gその後、名目上「著作権」の懸念から削除されたが、2016年の時点でYouTubeの他の場所で引き続き利用可能であった。この声明は、山口組の上級メンバーからのものである。ランキン(2012)は、菅沼の説明を「不快なほのめかし」として却下したが、明らかに(上記の注20で宮崎を称賛したことを考えると)、部落の部落支配に関する宮崎の発言を見逃している。>。

部落民と暴力団の関係のとりわけ不幸な実例は、九州北部の小さな町の話だ(訳注:大任町のこと)。部落解放同盟(野口 1997:31)によると、この町は国内で2番目に部落民の集中度が高く、住民の61%が部落に住んでいる。日本の他の地域の人々はこの町を「暴力団の町」と呼んでいる。インターネットでは、様々な人々がそこに近づかないように警告している。1986年、町長室で町長が何者かに撃たれた。2002年にも町議会議長をが何者かに撃たれた。2003年、警察は武器容疑でその町議会議長を逮捕した。同じ年の後半、警察は車の窃盗に関与したとして代わりの議長を逮捕した。2005年、町長は自分の事務所に火炎瓶が投げ込まれているのを見つけた<注22:例えば右記を参照。福岡の黄金 (2005)、暴力団の町 (2011)、乗っ取られた町 (2015)。>。

部落民と犯罪組織の結びつきの最も厄介な側面は、扇動的であるため学術的な説明では決して言及されないが、部落民の男性が暴力団に加わることを選択した割合にある。同和対策事業の数年間におけるその割合の大きさは、若い才能の莫大な転用、合法的な生活から犯罪行為への根本的な転換を示している。割合の下限を計算するために、部落民が暴力団の半分だけを構成し、180万人の部落民の総人口からランダムに採用された犯罪組織を想定する。1980年代後半の暴力団の最盛期においては、警察は20代の23,000人の男性と30代の27,000人の男性が暴力団関係者であったと報告した(警察白書1989)。部落民の年齢構成が一般人口と同じだとした場合<注23:実際は、1993年の政府調査によると、部落民は一般の人々よりも年齢が高かった。指定同和地区に住む部落民のうち、65歳以上が15.5%だった。日本の一般人口では、65歳以上は13.5%であった。内閣(1995)を参照のこと。>、20代の部落民男性の9.4%、30代の部落民男性の11.1%がそれぞれ暴力団関係者だったことになる。

それらが下限である。次に上限を計算するために、暴力団の70%が部落から来たと仮定する。さらに、一般人口に溶け込んだ70万人の部落民は暴力団関係者にならず、代わりに同和事業の対象となることを選択した部落に住む110万人からのみ暴力団関係者になったと仮定する。同じ計算によると、これらの指定されたコミュニティの20~29歳の部落民男性の21.4%が暴力団の一部であり、30代の男性の25.2%である。穏健な部落民ジャーナリスト角岡(2012:20)が述べたように、「長い間、部落は暴力団の温床であった」。

結果として生じた偏見は自己補強的なものであった。反社会的行動(暴力団への参加など)に加わることを選択した者がグループのごく一部のみであったとしても、それらの行動を取っている人々は異常な反社会的傾向を示していることになる。一方、多数が反社会的である場合は、とにかく犯罪的であると部外者が偏見を持つことが合理的になるため、ある人が捕まえられなくても、とにかく犯罪者と見なされてしまう。そして、こうして生まれた差別は、有罪歴と比較して、無罪歴の価値を低下させる。すなわち、グループ内の人間が、たとえその人自身が非の打ちどころのない行動をとったとしても、疑惑に直面することになる(ラスムセン1996)。特定の地域で多くの人間が犯罪に関与している場合、すべての人間が疑われる。これにより、実際に犯罪が表面化した人間の評価の低下は相対的に小さなものとなる。他の人々がその地域の全員を疑うことが合理的になるので、自己補強による悪循環が続くことになる。

2.部落解放同盟

部落解放同盟の起源は、松本治一郎が率いる戦前の過激な部落組織である水平社にまでさかのぼる。松本は福岡で土建屋を経営して収益を上げていた。彼は、ライバルが危険を冒してまで立ち向かう男として評判を高め、鉄道建設の市場をしっかりと掌握し続けた。少なくとも部分的には、この評判は暴力を背景としていた。ライバル会社が彼の収益を脅かしたとき、彼の従業員はその会社のオーナーを誘拐して殴り殺した(一ノ宮とグループK21 2012:22–24、54–58; 鳥取ループと三品2010、ニアリー2010)。

水平社では暴力が繰り返され、後継組織の部落解放同盟でも残虐行為のエピソードが受け継がれた。紛争は部落民のコミュニティを分裂させた。あるエリートの部落民一族は、地域福祉の改善に取り組むグループの中核を形成した(ドナヒュー1967:150–51)。1960年代、彼らは解放同盟の暴力的な戦術に最も悩まされていた部落民であった(コーネル1967:160、175)。ジョン・コーネル(1967:174)によると、部落の「よくある不満」は、部落解放同盟が「暴力に過度に頼りすぎる」というものであった。部落民の指導者たちは、「「部落解放同盟」の非常に攻撃的な態度は、敵意を全面に出して蒸し返すことで差別を強める傾向がある」と懸念した。

部落解放同盟の指導者自身が非常に多様な動機を持っていた。角岡(2009:313)は、1980年代に部落解放同盟支部への加盟を申し込んだ時を思い出し、現在の部落解放同盟幹部との会話について語っている。彼が部落解放同盟の指導者に尋ねたところ、次のように答えた。

「あなたを支部にご案内します。あなたの要求は何ですか?」
「「要求」とはどういう意味ですか?」申請者は尋ねた。
「住宅、仕事、税金。」 部落解放同盟の指導者は続けた。「たくさんのことがあるでしょ?」
「私には家があります」と申請者は答えた。「そして私には仕事もあります。」
「では、なぜ支部に参加したいのですか?」
「私は解放のために働きたいからです。」
「え? 今?」リーダーはいぶかしげに答えた。

この話は、同和事業時代の部落解放同盟の2つの異なるグループを示している。理想主義者と知識人は、統計を集め、本を書き、外国の学者を訪問して解放同盟の役割を説明した。暴力団に所属する事業家は、私的利益のために同和対策事業を利用した。「そのような時代があった」と穏健な部落民ジャーナリストの角岡(2012:53–54)は、「歴史的な反差別グループ(すなわち部落解放同盟)が現在または以前の暴力団構成員の重要な地位を占めていたとき」と回想した。結局のところ、彼はこう続けた。部落解放同盟員が「暴力団の」現役または元構成員であるのは珍しいことではなかった。差別に対する怒りから、荊冠(部落解放同盟シンボル)の下で闘いに邁進した人もいた。他の人々は、(同特法資金による)部落における事業を通じて、私財を作る企みのために邁進した。

3. 暴力

現代における部落解放同盟の暴力的な風評の一部は、日本共産党(JCP)との残忍な決別に起因している。1969年の特措法の制定と同時に、部落解放同盟は共産党と分裂した。解放同盟は長い間日本社会党と日本共産党の両方と結びついていたが、1960年代後半に共産党とは決定的に決裂した。欧米の学者は、一般的にイデオロギー的な理由で分裂したという主張を受け入れている。アップハム(1980)が述べたように、日本共産党は、「部落の解放は、抑圧されたすべての日本人を解放する日本社会の変革によってのみ完全に達成できる」と主張した。対照的に、部落解放同盟は、「差別は日本社会に蔓延しており、労働者階級の人々と共産党自体の間に存在している」と主張した<注24:ニアリー(1997:67)も参照のこと。部落民の「マルクス主義的立場」の詳細については、ライル(1979)を参照。>。

共産主義者ら自身は、紛争を日本共産党の内部抗争が原因と考えていた。中華人民共和国が1960年代に国際共産主義運動の主導権をめぐってソビエト連邦と決裂したとき、日本共産党もそのようにした。ある派閥はソビエト連邦に忠実であり、ソビエト連邦から資金を受け取っていたが、中国を支持した派閥が勝利した。部落解放同盟の指導者たちはソ連派と結びついていたが、ソ連派と共に共産党から追放されたことを知った。そして解放同盟は共産党員を追放することで報復した<注25:一ノ宮とグループK21 (2013:19, 263, 282)、右記もまた参照のこと。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2007-01-04/ 2007010426_01_0.html>。

しかし、部落解放同盟と日本共産党は、イデオロギーやソ連と中国の分裂以上に対立する要因があった。同和対策特措法による資金が危機に瀕していた。日本共産党の正統性を拒否するにあたり、部落解放同盟の指導者たちは、ライバルである彼らが同和事業に関係することを禁じた。それらの制約を実効力のあるものにするため、解放同盟は数百にのぼる強力な団体を組織した。これらの団体を運営するために、解放同盟はそれぞれ別の役割を持つ2人の人間を立てた。すなわち部落解放同盟支部長と暴力団構成員である<注26:森 (2009:33)、角岡 (2009:268--69; 2012:52)、一ノ宮とグループK21 (2013:96--97)。>。

部落解放同盟は日本共産党支持者に大きな打撃を与えた。解放同盟は婉曲的に彼らの戦術を「糾弾会」(きゅうだんかい)と呼んだ。関西で最もよく知られているのは、1969年4月の大阪市近郊の矢田での日本共産党関係教師への攻撃である。共産党員である中学校教師は、部落関連の余計な仕事について不平を言っていた。部落解放同盟は彼を「差別者」(さべつしゃ)と宣言し、彼と他の日本共産党教師を地元のコミュニティホール(訳注:解放会館)に引きずり込んだ。そこで、解放同盟は部落民200人の前で12時間以上にわたって教師らを糾弾した<注27:右記参照。日本(原告)対[当事者省略](被告)(訳注:刑事裁判なので原告に相当するのは検察)、782判例時報22(1975年6月3日大阪地裁)(不法逮捕の部落解放同盟指導者の無罪判決)、改訂、996判例時報34(大阪高裁1981年3月10日)を参照;木下(原告)対大阪(被告)、693判例時報111(1979年10月30日大阪地裁)(大阪市に対し糾弾された教師の損害賠償を命じる);フランク・アップハムによる翻訳。3つの意見すべてはミルハウプト他で参照できる (2012)。>。

八鹿(ようか)では日本共産党教師に対して部落解放同盟はさらに暴力的だった。日本共産党は残忍な攻撃が行われたと報告した。共産党の新聞の正確さは疑わしいものの<注28:この事件はニュースメディアで十分に報道されていなかった。数年後、部落民作家の上原(2014:3章)が八鹿(ようか)を訪れ、関係者と話をした。彼は広範囲にわたる暴力の報告を裏付けている。事件に関する司法意見については、右記参照。日本(原告)対丸尾(被告)(訳注:刑事訴訟)、523判例時報109(神戸地裁1983年12月14日)(部落解放同盟指導者の逮捕監禁への有罪宣告)、控訴棄却1309判例時報43(大阪高裁1988年3月29日)控訴棄却(最高裁1990年11月28日); [名前なし]、1350判例時報 107(神戸地裁1990年3月28日);森本(原告)対[名前なし](被告)、1273判例時報38(1987年9月28日神戸地裁)、控訴棄却、696判例時報100(大阪地裁1989年2月15日)。>、スタンフォード大学の人類学者トーマスローレン(1976:685–86)は現地調査を行っており、彼は次のように報告している。

学校の中では殴打が執拗に続いた。… ある教師は火のついたタバコで火傷を負い、また別の教師は彼の手と足を持ち上げられて、床に繰り返し落とされた。…暴力は夜まで続いた。… その朝学校を離れた52人の教師のうち、12人は肋骨、椎骨、または脛骨が折れた状態であり、複数の教師は多重骨折を負った。今述べた12人を含む13人は、少なくとも6週間の入院を必要とした。さらに5人が1か月、15人が2~3週間、さらに15人が1週間以上入院した。

4.「窓口一本化」主義

部落解放同盟の指導者たちは、特措法による同和対策事業を独占的に管理しようとした。彼らの言うところの「窓口一本化」主義を求めた。すなわち、すべての資金はただ1つの窓口を通して到達し、その窓口は解放同盟が管理した。

部落解放同盟の指導者たちは、最初に大阪府吹田市に窓口一本化主義を強制した。1969年6月、彼らは吹田市当局にこの政策を受け入れるよう要求した。市役所が難色を示すと、彼らは300人の部落解放同盟員を送りこんだ。ある部落解放同盟評論家の報告によれば(その報告が正しいか確認はできないが)、彼らは3日間にわたって市長の家を囲み、一晩中ドラムを叩いた。さらに市長の家のガス、水と電話回線を切った。市長の家の壁をよじ登り、中の敷地におりたった。最終的に、市長は黙認することになった(中原1988:128–29、一ノ宮&グループK21 2013:270)。

部落解放同盟は都市から都市へと移動した。て(繰り返しになるが評論家によると)必要に応じて、その戦術を繰り返した。たとえば、羽曳野市(大阪府)と対峙したとき、部落解放同盟員は市役所を122時間占拠し、市長を22時間監禁した(中原1988:128–29;一ノ宮&グループK21 2013:96–97、270 )。彼らはどこでも支配権を獲得できるわけではなかったし、もし訴訟を起こされたら法廷で敗北する可能性もあった<注29:例えば、前田(原告)対西脇市(被告)、887 判例時報 66 (神戸地裁1977年12月19日)、福岡市(原告)対松岡(被告)、870判例時報61 (福岡高裁1977年9月13日); 概要はアップハム (1980:54--62)を参照のこと。>。やがて、ほとんど(すべてではない)の都市が窓口一本化主義を取りやめたが、部落解放同盟は支配権を要求し続けた。

初期の窓口一本化主義を例にとると、ある部落が同和対策事業を受けたい場合、部落解放同盟支部事務所を必要とした。あたり前のことであるが、お金が関わるとなると、以前は消極的だった全国の部落で急いで支部が設立された。やがて、部落解放同盟の会員数は20万人を超えた(角岡2012:36、65、304、小林2015:12)。

5. 予測可能な結果

a. 部落内外の結婚

同和事業資金により動かされ、組織犯罪や暴力にまみれた組織から、いくつかの結果が生じた。明らかにこの組織は、引き続き多くの一般の日本人が子供を部落民と結婚させることに消極的であることを助長させた。現代のほとんどの日本人は、義理の息子や娘となる人を個人として評価する。その人の祖父が肉屋として働いていたかどうかといったことは気にしない。しかし、子供が組織犯罪と関係する家族と結婚することは、気が気でない。

b. 雇用

同様の理由で、一般の雇用主の一部は部落からの応募者の採用を避け続けた。雇用主は、正直で一生懸命働き、会社の目標を推進するために必要に応じて意見の交換ができる従業員を求めている。多くの(おそらくほとんどの)企業は、潜在的な応募者を個人として評価する。そうでない人々は、恐喝と暴力団で知られる部落の背景を、許容できないリスクと見なすであろう。

部落解放同盟が会社を「差別的」と認定することを決定したとき、企業が誠意を示さない限り、部落解放同盟は「糾弾」会を迫った。誠意を示す最も簡単な方法はお金を払うことだった。1975年、部落解放同盟は、伝統的な部落の場所を特定する本を購入した企業を攻撃した。解放同盟に対して最も厳しい評論家によると、その後、攻撃したばかりの企業からの「寄付」を通じて、資金を供給する政治部門を形成した。「寄付」の範囲は、リッカーミシン(訳注:1984年に倒産したミシンメーカーのリッカー株式会社)の10万円から三菱不動産の300万円まで幅広かった(寺園他2004:298–99)。

その評論家によれば、この慣行は一般化された。解放同盟が大阪の企業を「差別」と非難したとき、ある評論家の報告では、企業は「研究会」に参加することで「糾弾」会を回避することができた。その研究会は無料ではない。別の部落解放同盟評論家によれば、同盟は、従業員数101~500人の企業の場合、年間19万円から、従業員数3,001人以上の企業の場合は、年間23万円まで、と段階的な金額を請求した(鳥取ループ2011:60)。

c.沈黙

当然のことながら、一般のジャーナリストは部落について何か言うことを躊躇する。部落解放同盟は定期的にメディアの報道を「差別的」と認定し、糾弾している。ここでは数あるのエピソードのうち2つを紹介する。1981年、東京大学出版局はマーガレット・ミードの本の日本語訳を出版した。その中で彼女は、伝統的ではあるが蔑称的で、ポリティカル・コレクトネスに反した言葉を穢多非人に使用した。出版社は本を回収したが、部落解放同盟はとにかく圧力をかけ続けた(小林2015:74–75)。1982年、東京大学の体験型講座において、ある教授(訳注:有賀弘のこと)が、「東日本には部落問題はない」と主張した。「それは西日本での問題だ」と教授は説明し、「しかも、部落民予算(同和対策特措法)をめぐる部落解放同盟と日本共産党の間の金銭的対立である」と彼は説明した。これらの発言に対して、部落解放同盟は教授を「糾弾」にさらした(小林2015:76–77)。暴力的な脅しをギリギリで偽装したこれらの「糾弾」は、部落研究の分野全体を高リスクにした。ほとんどの学者は部落研究から遠ざかることになった。

Ⅲ. 取り締まり

A.法律

政府が同和事業の廃止に向けて動き始めたとき、政府はまた摘発を容易にするために法律を再構築し始めた。1991年、前科のある構成員の数などの要件に基づいて、暴力団を犯罪組織として指定することを都道府県に許可した<「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」、1991年法律第77号。概要はヒル(2003)を参照のこと。>。一度指定されると、警察はより少ない制約で暴力団に対抗することができる。2011年に、特に危険であると指定された組織に対して追加の措置を許可するように法律が改正された(工藤會2013、一ノ宮&グループK21 2016:2)。2000年と2007年の制定された他の法律は、金融詐欺と資金洗浄に対する警察の捜査を容易にした(ランキン2012)。

2010~2011年までに、都道府県は独自の暴力団対策条例を可決した<例えば、東京都暴力団排除条例、条例第54号、2011年3月18日。青森県暴力団排除条例、条例第9号、2011年3月25日。岩手県暴力団排除条例、条例第35号、2011年3月16日。概要は暴力団(2012)を参照のこと。>。大抵は曖昧な表現であったが、結果的に合法的な企業に、暴力団構成員とのさまざまな日常的な商取引を避けるよう圧力をかけた。原則として、地方自治体が暴力団と契約することを禁止した。取引相手が暴力団とのつながりを持っている場合は契約解除できる定形約款を使用することが企業に奨励され、企業が暴力団関連会社に投資したり、その他の方法で資本を提供したりすることは禁止された。

累積的に、法律と条例は暴力団にかなりの圧力をかけている。ランキン(2012)は、「ヤクザが公売に参加するのを防ぎ、福祉給付金を受け取らないようにし、公営住宅事業から追放するキャンペーン」を報告した。福岡県警は「ヤクザのボスのために名刺を作った印刷会社に警告した」(ランキン2012)。また、大阪の裁判所は、最近の法改正により、「投獄された部下の家族に金銭的援助を提供したとして、ヤクザの上司に懲役10か月の刑を言い渡した」(ランキン2012)。

2000年頃、暴力団に対する警察の活動が加速した。恐喝・脅迫に関する逮捕だけを見てみよう<一人当たりの「粗暴」犯罪の数:恐喝・脅迫、危険な武器を使った集会、暴行、暴力。法務省(さまざまな年)からのデータ、および政府統計データベースからダウンロードできる。>。警察は、2012年の逮捕者数のうち暴力団関係者が関与した割合は、恐喝が44%、脅迫が29%であると報告した(法務省、犯罪 2013:表4-2-2-2)。逮捕者数は市町村レベルまでは分からないが、表2は、全国および部落民の人口が多い都道府県での逮捕を示している。

以下に説明する理由により、脅迫のレベルは1970年代と1980年代に非常に高かった。これらの高数値から、1996年の全国の脅迫による起訴件数は37,110件と着実に減少した。部落民が多い3県でも同様に減少した。しかし、1999年から2000年にかけて、起訴件数は全国で33%急増した。大阪府では25%、兵庫県(山口組の本拠地)では39%、福岡県(特定危険指定暴力団工藤會の本拠地)では9%と急増した。

B.ターゲット

2000年代に入ると、政府は警察力を使った。何十年もの間、警察と検察官は部落解放同盟の指導者に手を出さないできた。しかし、2004年には浅田満らハンナングループの上級管理職10人を50億円の補助金詐欺で逮捕した。浅田は地元の部落解放同盟支部で重要な役割を果たし、暴力団・山口組で目立った地位にある2人の実弟をハンナングループで雇っていた<[当事者名前なし]1918 判例時報 126 (大阪地裁2005年5月27日)。右記参照、角岡 (2012:187)、一ノ宮とグループK21 (2012:258--64)、伴 (2017)。>。第一審では浅田に懲役7年の判決が下った。高裁は刑期を減らしたが、有罪が確定した。

2005年、警察は大阪市の契約がからんだ入札で不正を行ったとして大阪府同和建設協会の造園業者を逮捕した。警察は不意打ちで大阪市職員も逮捕した。「しかし、私たちはこれを30年間行ってきたんです」と弁解する者もいた。それでも、裁判所は彼らを有罪とした(角岡2012:187;「しんぶん赤旗」2006年1月20日(金)「「解同」系協会加盟業者を逮捕」)。

2006年、芦原病院についてのニュースが流れた。病院は大阪の部落民に奉仕するもので、壁に誇らしげに部落解放同盟の記章(訳注:荊冠旗)を掲げていた。さらに、市から13億円を借りながら返済していなかった。自身も部落解放同盟員である看護師は、次のように不満を述べた<角岡 (2009:271; 2012:188--89)。概要は友常 (2012:3章)を参照のこと。>。

看護師と事務職員は主に近隣からの雇用者です。病院には通常の病院の1.5倍の職員がいます。仕事が楽になると思いますよね? そうではありません。多くの職員は、ただのんびりとしています。…事務職員は残業中にテレビを見ています。一部の看護師は、どれ位の時間で静脈注射ができるか計算することすらできません。このような状態は人生に影響を及ぼします。

2006年、変わって警察は大阪の中心部から外れた八尾市の部落解放同盟支部の元支部長(訳注:丸尾勇のこと)に目を向けた。その男は山口組の相談役を兼務していた。彼は市役所からの利益と、公共工事の受注に成功した企業からの見返りを要求していたようだ。警察は彼を恐喝で立件し、裁判所は彼を刑務所に送った。裁判所が決めた刑期は短く、2014年までに彼は再び新たな詐欺の罪で逮捕された<角岡 (2012:190)、丸尾 (2006)、一ノ宮とグループK21 (2012:150--51)。>。

メディアも京都市の職員について報道し始めた。1996年から2001年にかけて、警察は覚せい剤に関する罪で16人の市職員を逮捕した。これは有権者が公務員が清廉であると信頼している(または少なくとも期待している)国のことである。市職員らの逮捕に伴い、警察は暴力団への所属、コカインの使用、シンナーの乱用、暴力行為といった過去の経緯を明らかにした。これらの市職員のほとんどは、京都市が部落民の優先雇用事業を実施している部署で働いていた(寺園他2004:47)。2003年から2006年の間に、京都市は暴行や盗難から長期欠勤に至るまでの不正により70人の職員を処分した(角岡2012:191)。悪いニュースは続いた。2006年4月から2007年7月まで、警察はさらに15人の市職員を逮捕した。今回は、覚せい剤だけでなく、暴行、ひき逃げ、ゴルフクラブによるATMの破壊も理由となった(中村&寺園 2007:4、11–12)。

2006年末までに、奈良市職員の部落解放同盟支部長(訳注:吉田昌史こと中川昌史)が、過去5年半の間にわずか8日間しか勤務していなかったとメディアは報じた。残りの期間、職員は病気と報告し、給与を全額受給していた。メディアは職員の白いポルシェと、妻が所有する建設会社と市との契約について大きく報じた。市は職員を正式に解雇し、警察は建設工事に関連した恐喝の罪で彼を逮捕した(角岡 2012:191; 奈良市2006)。

C. 小西邦彦

<概要は右記参照。角岡 (2012)、森 (2009); 一ノ宮とグループK21 (2012:64--147)。>

最大のニュースは、部落解放同盟支部長の小西邦彦に関するものであった。2006年、警察は30代の愛人のマンションで72歳の小西を逮捕した。小西はとてつもない金持ちになっていた。小西を担当した銀行員は、小西は人生で100億円を稼いだと推定している(角岡2012:101)。小西はこのお金の多くをヤミ金融と同和対策特措法関連事業のキックバックから得たが、警察はさらに山口組のために資金洗浄をした疑いを持っていた。警察は、資金洗浄の事実を掴むために1年間小西を追跡した(森 2015:190–228)。やがて、これは横領の証拠につながり、2006年5月にそれらの容疑で小西を逮捕した。

小西は1933年に大阪と京都との間にある部落に生まれ、中学を卒業後は落ちこぼれた。小西は暴力と恐喝のために刑務所で複数の期間を過ごした。小西はヘロインを扱っていた。やがて山口組系暴力団に加わり<角岡 (2012:26, 29, 41)、一ノ宮とグループK21K21 (2012:80)、森 (2015:123)。>、1969年35歳で大阪市の飛鳥地区にある部落解放同盟支部長に就任した。

小西はその後、市を説得して近くの土地を駐車場に変えた。名目上、小西は地域の社会福祉法人を介して多くのことを実行した。実際のところ、小西は最初からそれらで不正を行っていた。小西は市に90台の車を管理していると言ったが、実際には200から400台であった。さまざまな口座があったが、少なくともそのうちの1つは、実際には2億円の収入があるにもかかわらず、市には7000万円と報告した。2004年、市は駐車場収入について最初の30年間で18億円と報告した。小西は実際には50億円を集め、少なくとも一部を彼の暴力団組織に送金していた<角岡 (2012:22, 60--63)、森 (2009:22)、一ノ宮とグループK21 (2012:71--76)。>。

小西は贅沢に暮らしていた。小西は奈良に邸宅を所有し、飛鳥にある小西の同和対策公営住宅をまた貸ししていた。小西はさまざまなマンションに愛人たちを住まわせていた。夜は豪華なナイトクラブで過ごし、月額1,000万円をバーにツケにしていた(角岡2012:124)。小西は運転手付きのリンカーンに乗り、娘のためにメルセデス・ベンツを購入した(一ノ宮とグループK21 2012:79、83、森2009:68)。小西はバーで警察官を接待した(森2009:128–30)。彼は山口組組長(訳注:竹中正久のこと)と十分に緊密な関係を維持し、敵対組織が組長を撃ち殺したとき、その現場は小西名義で所有されているマンションのロビーであった(角岡2012:108)。

おそらくそれは小西の堕落性のスケールの大きさであったか、あるいは部落解放同盟内での小西の卓越性であったかもしれないが、警察は小西を見せしめにした。検察は駐車場から1億3000万円を横領した罪で彼を起訴した(角岡2012:23)。三菱UFJ(旧三和)銀行の小西の元担当者は、警察が動く前に自殺した。現担当者は、詐欺を助長し、幇助したとして逮捕された。(森 2009:18–19;、一ノ宮とグループ K21 2012:68)。2007年に第一審裁判所は小西を有罪とし、6年の刑を言い渡した。小西はその年の後半に亡くなった。

Ⅳ. 堕落の類型

A.序

ここで、部落民という立場が、どのように収益を生むのかを詳しく見てみよう。同和対策事業の30年間、部落の堕落は通常、次の5つの形態のいずれかを取った。

  1. 施設建設に関する行政からの受注

  2. 主に施設建設のために行政へ土地を売却

  3. 脱税

  4. 「差別」の糾弾。企業が十分な金額を支払った場合、運動団体は糾弾を止める。

  5. 地方自治体の雇用等の、同和利権の分配の管理

これらの5つの先述はすべて、同和対策関連特措法から直接得られたものではなかった。しかし、単純な仕掛けによって間接的に得られた。すなわち、同和事業は犯罪組織に多数の部落民を参加させた。犯罪組織は一般の日本人の間でより恐れられるようになった。そしてその恐怖は、一部の部落民が民間企業や政府から引き出すことができる収益を増やすことになった。上記5つをそれぞれ順番に見ていこう。

B.建設事業の受注

同和対策関連特措法の過程で、日本政府は同和地区に15兆円を惜しみなく投入し、その多くは建設事業に費やされた。大阪府は1973年のたった1年で660億円、75.9%を建設事業に費やした(中原1988:132)。

部落解放同盟の「窓口一本化主義」により、すべてではないが、ほとんどの分野で、部落解放同盟は大阪府同和建設協会(同建協)に加入している企業に建設事業の受注を割り当てることができた。これらの企業は、同建協に契約金額の0.7%を支払った。解放同盟に厳しい批評家は、この慣行により、同建協は約30年間で70億円を獲得したと主張している<中原(1988:132)、森(2009:77、180)、一ノ宮とグループK21(2012:127; 2013:108--11,268)。森(2009)は解放同盟批評家ではないことに注意のこと。彼は著名な出版社で本を出している主流のジャーナリストである。>。

名目上、同和関係企業のみが同建協に加入できたが、実際には、それ以外の一般企業もしばしば加入した。特措法による資金が供給される建設事業の利益は十分に高かったので、一般企業が同和関係企業になろうとした。体裁を維持するために、企業は顕著な部落民指導者(訳注:おそらく解放同盟支部長)を社長に据える方法もあるが、賄賂だけで十分な場合もあると言われている(森2009:180–83)。

落札に成功した部落民指導者の中には、0.7%の同建協手数料を超える金額を要求する者がいたようだ。小西の例のように。部落ではない一般の建設会社の入札を担当した実業家の説明によると(森2009:78、180):

もし大阪市の事業に入札しようとすれば、通常は最初に小西さんを訪ねました。結局、小西さんが入札を仕切っていました。だから、市が事業を入札にかけようとしていたら、私たちは小西さんを訪ねるのです。私たちは(同建設協会員による)ジョイントベンチャーを立ち上げ、それを小西さんに提示し、小西さんの承認を得ました。

会社が落札すると、契約の3~5%を小西に個人的に支払った(角岡2012:96)。

能力のある部落民は、ダミー会社を通じて同和事業の収益を自分自身が得ることもできる。そのために、彼らはまず会社を設立する。その会社は同建協に加入し一般の建設会社(小西を訪れた会社など)と提携する。彼らは一緒に公共事業に入札し、入札に勝ったら、ダミー会社を切り離し、一般の会社が仕事をした<小西自身が野間工務店事務所を所有していた。設備はほとんどないのに、大量の入札に勝ち抜いた。5年間という期間で、21億円以上の市との事業契約を獲得した(一ノ宮とグループ K21 2012:83--84、125、238-39; 2013:271-72)。>。

批評家は、一部の部落民活動家は、同和対策事業は部落に限定しなかったと言う。この主張が誇張されているかどうかは分からないが、批評家たちは、部落民活動家が、今まで存在してもいなかった部落を見つけたと主張することがあると不満を漏らしている。活動家らは大勢の仲間を伴って無防備な市役所に押しかけ、市にその地域を同和地区指定するように迫った。そして活動家らは、市が同和住宅建設の入札を行うよう要求するのだ。対象地域の住民が不満を言った場合、活動家らはそれらの住民を偏見でもって非難した(中原1988:28–44、106–08; 一ノ宮&グループ K21 2013:267-68)。

建設事業にはこのような膨大なリソースが含まれているので、犯罪組織の間にも緊張が生じた。日本の組織犯罪の歴史の中で最も血なまぐさい時期は、山口組とその対立組織との間で戦争が勃発した1980年代半ばであった。それは単純な跡目争いではなかったと、部落民作家の宮崎学は説明している(宮崎&大谷2000:73)。それは、同和対策事業からの巨額の収益配分をめぐる戦いだった。

C.土地ころがし

コネのある部落民は、建設事業用地を高騰した後の価格で役所に売却することもできる。批評家は、さまざまな地域での例を報告している。自治体が飛鳥地区を再開発したとき、小西自身が莫大な利益を懐に入れた(角岡2012:86)。小西は土地を安く購入し、彼の伝記を書いた角岡(部落民でもある)の報告によれば、それを高値で役所に転売した。彼はまた他人の土地についても、有料で役所への高額な売却を仲介した。

ある大阪の不動産業者は次のように述べている(角岡2012:85–86):「小西が支部長になってから、どこに道路が通るのか、そして住宅がどこに建てられるのかを知る方法を学びました。」不動産業者は小西が何を買ったのかを見ていて、それを角岡に語った。「小西は以前1700万円で土地を取得しました」と彼は思い出した。「それから彼はそれを3000万円で役所に売りました。」

1970年代の北九州市と部落解放同盟指導者間のいくつかの売買のことを考えてみよう。朝日新聞(日本の知識階級の新聞)が最初にこの話を報じたが、そのことを解放同盟は否定していない。確かに、解放同盟は関係した個人を懲戒しさえした。角岡(2004:63–64)は、解放同盟自身が発行した本で、不正について率直に論じている(そして批判している)。表3は、新聞社が報告した土地売買の類型である。

たとえば、表3の最初の行は、ある部落民が1973年9月24日に土地を購入し、10月26日に彼が支払った金額の1.7倍で市に転売したことを示している。9回の取引のうち2回目を行った部落解放同盟関係者は、2億9千万円の利益を上げ、他のいくつかの土地も同様に市に売却した。総合すると、市に土地を売却して13億円を稼いだ(角岡2004:63)。

D.脱税

<この記述は、さまざまな情報源から入手できる。比較的バランスの取れた著作については、角岡(2012:88-92)、森(2009:115-20)を参照のこと。部落解放同盟自身の記述については、部落(1978:章9-2)を参照のこと。部落解放同盟に非常に批判的な情報源については、右記参照のこと。ヒラ(1991:53-74)、寺園他(2004:122-200)、一ノ宮とグループK21(2013:33-44)、中原(1988:146-52)。>

同和対策特措法の30年間で、多くの部落企業は税制上の特権を要求し、引き出すことに成功した。その公式記録の1つで、解放同盟は、この偉業をどのように達成したか誇らしく語っている(部落 1978:106–26)。1967年12月、解放同盟大阪府連とその新しい下部組織である大阪府同和地区企業連合会(大企連 訳注:後に部落解放大阪府企業連合会と名称変更)の40人の会員が税務署に向かった。彼らは職員に対し「差別的な」課税があると非難し、(彼らの言葉で)「攻撃的な」戦術で戦うことを名言した(部落1978:109)。彼らによれば、ある部落民が土地の一部を売ったところ、税務署の担当者がそんなに安く売るはずはないと信じなかったという。解放同盟と大企連の40人は、税務職員を5時間「糾弾」した(部落1978:109)。

翌月、大企連の有力者が税務署に再び現れたが、今度は400人の部落民で行ったと、公式記録は誇らしく続けている。「国税局は部落の現実と差別について学ぶことを拒否していた」と説明した。そこで彼らはさらに5時間税務署の職員を追及し、(再び彼らの言葉によれば)「勝利」した<部落(1978:109)。協定は1978年に更新されたようである。一ノ宮他(2004:34)参照のこと。部落解放同盟自身(部落1978:111)とその批評家(一ノ宮とグループK21 2013:34、中原1988:147)の両方が、国税庁が全国的に同じ方式を採用することに同意したと主張している。とは言うものの、裁判所は、国がそのような条件に同意したであろうことを断固として(そして非常にもっともらしく)否定した。例えば、国(原告)対坂本(被告人)、226 Zeishi 3337(大阪高裁1995年6月15日)、他の理由で控訴棄却、226 Zeishi 3316(最高裁1997年11月14日)(下級裁判所を引用した審判請求趣意書)。>。税務署は、以下の事項を含む7つの原則に同意した。

3. 返却…大企連を通じて提出され、その監督下にあるものは、完全に受け入れるものとする。内容を監査する必要がある場合は、大阪府同和地区企業連合会の協力を得て監査を実施するものとする。
4. 同和対策事業には課税されないものとする。

事実上、各地の国税局は、大企連が望むような税の減免を許可することに同意した。「国税庁は、1000万円の収入が300万円か400万円に減ると説明した」とあるジャーナリストは書いた(角岡2012:92)。「2000万の収入は500万から600万に減少する。事実上、所得の3分の2は非課税として扱われる。」

3分の2の減税が見込まれるのを見て、様々な企業が争って部落に参加する特権を求めた。繰り返しになるが、解放同盟員の権力者たちがそれを可能にした。1997年のある調査によると、大企連飛鳥支部の52企業のうち15は、会社や会社所有者が飛鳥地区外にあった(角岡2012:92)。小西をよく知っている人は次のように説明した(角岡2012:92):

それは1970年代半ばの頃だったと思います。小西さんに600万円を渡すように頼まれました。それは大企連に加入させてくれたことへの御礼でした。…それなら部落民であるはずだと思うでしょう。しかし、部落民以外の会員でした。そのような場合、加入者はお金を払わなければなりませんでした。

大阪市と小西がやっていたことが一般化された、すなわち一般企業は大企連という部落民団体に加入するために賄賂を使った。全国的に見ても、大企連会員の約5分の1が部落企業ではないと批評家は推定している。そのような企業は大企連に紹介してもらうために誰かにお金を払い、参加した。会員になると、企業は免税資格要件を満たすために、大企連に対価を支払った。通常、税金の約20%が免除された<右記参照。一ノ宮とグループ K21 (2013:39, 43--44)、中原 (1988:152)、ヒラ (1991:64--66)、寺園他 (2004:122--36, 200)。>。

大企連会員であることにより完全な免税を提供されるわけではない。特に検察官が行動を起こす意思がある場合は、裁判所は協定を適用するつもりはなかった<検察は、手数料と引き換えに脱税を幇助した部落民らに対して特に厳しいと見られる。右記参照。国(原告)対坂本(被告人)、226 Zeishi 3337(大阪高裁1995年6月15日)、他の理由で控訴棄却、226 Zeishi 3316(最高裁1997年11月14日)。>。このことには限度があり、1989年に大阪地方裁判所は370億円は限度を超えていると宣言した。国会はまだ同和対策事業特措法による事業を終了しておらず、検察はまだ小西に手をかけていなかった。それにもかかわらず、1986年に検察は日本最大のスロットマシン製造会社である東京パブコ(および関連団体)とその納税申告書の提出を手伝った顧問を起訴した<事件は広く報道された。国(原告)対中谷(被告人)、197 Zeishi 2713、1989 WLJPCA 07066001(大阪地裁1989年7月6日)、改訂、197 Zeishi 2670、1992 WLJPCA 08266004(大阪高裁1992年8月26日)。例えば、ヒラ(1991:58--65)、一ノ宮とグループK21(2013:39--44)も参照のこと>。同社は大企連に加入し、収入を370億円過少申告しており、これは実質収入の98.5~99.9%に相当する。大企連に加入できるようにするために、大企連指導者が母親を会社の取締役会に入れていた。新たに部落民の地位が確保されたため、同社は安全に収入を過少申告できると考えた。特権の対価として、顧問に7億円を支払った。顧問はそのうち5億円を大企連に送金し、2億円を個人的な手数料として受け取った。

第一審判決は顧問に懲役2年8ヶ月と2億円の罰金を言い渡した<国(原告)対中谷(被告人)、197 Zeishi 2713, 1989 WLJPCA 07066001 (大阪地裁1989年7月6日)。>。大阪国税局による大企連の申告書の扱いについては、「同和団体が脱税に利用されており、税務署の対応に問題がなかったとは言えない」と不服があった。控訴において、顧問の弁護士は、国税局と大企連の特別な取り決めを強調した。7つの原則の3番目を引用し、その原則を受けて、税務署は大企連の他の9,000社の会員に申告書の修正を要求したことは一度もないと主張した。それにもかかわらず、高等裁判所は第一審判決を支持した。顧問の刑は2年に短縮され、確定した<国(原告)対中谷(被告人)、197 Zeishi 2670, 1992 WLJPCA 08266004 (大阪高裁1992年8月26日)。>。

E.恐喝

同和対策事業により、資金が部落民が関わる犯罪集団に移り始めた時、一部の集団は「差別」糾弾と恐喝とを結びつけた。企業は彼らを追い払うため、お金を支払った<これらの恐喝行為の「政治的に正しい」用語は「えせ同和行為」である。解放同盟は、同盟自身が認めていない恐喝行為、および事後に放棄することを決定した行為にこの用語を使用する(例えば小西の行為、角岡 2012:208を参照)。明らかにこの論理に従って、ランキン(2012)は、「ヤクザ自身が部落民の権利団体を装い、企業に補償金を支払うよう圧力をかけることによって状況を悪用している」と書いている。>。

この現象は1980年代に始まったと言われている。フリージャーナリストの宮崎学は、彼自身部落民であり暴力団組長の息子だった。彼は次の通り報告している(宮崎と大谷2000:73)。

この時期(1980年代半ば)は、被差別部落民による恐喝がピークに達した時期でした。…この時期に、暴力団にもたらされる収益の規模が変化しました。以前、暴力団は覚せい剤を売るようなことをしていました。しかし、これらの伝統的な活動と比較して、暴力団が被差別部落民による恐喝を通じて得ることができる稼ぎがはるかに多かったのです。

法務省が1989年にこの問題を調査したときまでに、恐喝は蔓延していた(表2の1980年代の恐喝による逮捕の多さを参照のこと)。同省は5,906社に連絡を取り、そのうち4,097社が回答した。回答者の17.5%は、1988年中に少なくとも1つの同和団体の恐喝の標的にされたと報告した。通常、同和団体の構成員は会社の従業員に電話口で叫び、部落民の問題を理解していないと非難した。時には彼らは政治家との関係を自慢し、時には規制当局に会社を調査させると脅迫した(法務省1989:33)。

同和団体は、たった1回の電話で会社を許すことはしなかった。対象となる企業に平均3.2回、大阪法務局管内では8.8回アプローチした。ほとんどの企業から、彼らは対価―現金、高額な出版物の購読、借り入れを要求した。建設会社に契約金の削減を要求したこともあった(法務省1989:11、33–37)。攻撃を受けた企業の3分の1は、少なくとも一部の要求に応じた。中小企業は屈服する可能性が最も高かった。1,000人以上の従業員を抱える企業では、25.0%が少なくとも1つの要求に応えた。従業員が50人未満の企業では、38.8%が要求に応じた(法務省1989:50)。

F.特権

1.経済的利益

特措法の下では、国や地方自治体は、集会施設を建設するために請負業者に対価を支払うだけでなく、部落民の家族に多くの利益を提供した<これらの利益の一覧は、例えば、寺園他(2004:292-93)、寺園(2005:37-40)、アップハム(1980:49)。>。地方自治体が解放同盟の窓口一本化主義を受け入れた地域では、解放同盟がこれらの利権を誰が受け取るか、受け取らないかを決定した。解放同盟が対抗勢力(例えば日本共産党と提携している部落民など)を除外した場合、除外された家族が訴訟を起こすことがあった。家族は多くの場合勝訴し、そして、地方自治体は結局ほとんどの地域で窓口一本化主義を廃止した<例えば、東(原告)対大阪市長(被告)、30 行集 1352 (大阪地裁1977年7月30日) (学費)、福岡市長(原告)対松岡(被告)、870 判例時報 61 (福岡高裁1977年9月13日) (住宅ローン)、前田(原告)対西脇市(被告)、887 判例時報 66 (神戸地裁1977年12月19日) (住宅ローン)、暴力に反対等(原告)対芦屋市(被告)、979 判例時報 107 (神戸地裁1980年4月25日) (会議室利用)、長井(ながい) (原告)対大阪市職員労働組合(被告)、987 判例時報112 (大阪地裁1980年6月25日)(組合員会合)、河野(こうの)(原告)対北九州市(被告)、1005 判例時報 150 (福岡高裁1980年6月8日)(保育園入園)。概要は右記参照。アップハム (1980)、寺園他 (2004:203-04, 287)、一ノ宮とグループK21 (2013:264-65);、朝日 (1982:52-55, 60-69)>。

2.住宅

行政は部落民のために特別な公営住宅を建てた。これらは家賃が多額に助成されるので、その地域に既に住んでいる人々にとって魅力的なものだった。窓口一本化主義により、地元の解放同盟幹部は、どの家族が同和住宅を取得するかを決定できた。1980年代、穏健な部落問題ジャーナリストの角岡の主張では、飛鳥地区では一部の解放同盟支部長はこれら住宅取得のために、一家族あたり70万円も受け取った(角岡2012:86–87;中原1988:78も参照)。

このように新たに手に入れた私財で、しばしば解放同盟支部長は部落を去り、他の場所に自分自身のためのよい家を建てた。助成を受けた公営住宅に自分の名義を残し、他の家族、時には部落民以外の家族にまた貸しする人もいた(角岡 2012:153–54)。建設事業や税制上の優遇措置と同じように、住宅関連でも一般の日本人が部落民の地位を手に入れることができ、実際にそうした。

3.仕事

特措法が発効した直後、解放同盟は地元の役所に優先的な雇用政策を求めた。特措法自体は、この優先雇用を義務付けておらず、それは、窓口一本化主義以上のことであった。しかし、特措法制定直後、部落民は役所を「糾弾」し始め、部落民をより多く雇うという約束を引き出した(中原1988:86)。いくつかの自治体は黙認した。2000年代初頭までに、覚せい剤等の刑事犯罪で逮捕された京都市職員の大部分は、これらの取り決めの下で雇用された者であろう(中村&寺園2007:22)[51]

京都市は、いくつかの部署で採用を委任した。表向きは試験を行ったが、あくまで表向きのことだった。実質的に、部落民は「フリーパス」だった。解放同盟と共産党が決別したため、解放同盟系列と日本共産党系列の同和団体の両方に採用枠を割り当てた。これらの団体は雇用の候補者を指名し、市は彼らが指名したとおりに雇用した。当然のことながら、同和団体は「その人が運動にどれだけ貢献したか」に基づいて指名した(中村&寺園2007:18–19; 寺園他2004:56)<中村は、日本共産党候補として2度出馬した活動家弁護士である>。

G.社会的影響

1.恨み

同和対策事業は部落民に対する敵意を直接引き起こした。一般民は、同和特権に憤慨した。「(特措法を通じて)これらの特別な便宜がある限り、近隣住民は私たちが特別な恩恵を享受していると思うでしょう」とある部落民は不満を述べた(寺園2005:46)。「私たちに対する敵意は今後も続くのです。」

暴力団が関係した事件は、さらに強い恨みを引き起こした。部落民ジャーナリストの角岡(2004:48)は、「部落解放同盟が関わったこれらのスキャンダル」は、「部落住民自身のネガティブなイメージを再生産し、拡大した…こう思うのは私だけではないはずです。部落解放同盟は、自分たちがいったい何をしていると思っているのでしょうか?」と不満を述べている。

2.教育

同和政策の下で、才能のある若い部落民は暴力団で彼らの地位を作った。同和対策給付金は、暴力団員への転換を直接的に増やした。犯罪組織にとって、同和事業は容易な収益だった。必然的に、部落民が犯罪者へ転身することを増やした。その過程で、同和事業は教育への相対的な回帰を大幅に削減し、合法的職業での地位に必要な能力を持つ若い部落民の数を減らした(中村&寺園 2007:20; 角岡 2016:199)。暴力団内部での地位を上げるために大学の学位は必要ない。解放同盟の指名に基づいて雇用する自治体においても同様である。

中村和雄と寺園(2007:21)によれば、京都市長選に望むも2度失敗した日本共産党候補者が、ある部落住民の言葉を次のように引用している。「多くの子供や若者が高校や大学を卒業した後、さまざまな道を選ぶことができたでしょう。しかし、この(採用)事業が発効すると、彼らは勉強しているかどうかに関係なく、自治体で仕事を見つけることができることを知っていました。それは単に彼らの向上心を破壊しただけです。」ある元活動家(伴2017)は、「才能のある若者や自信のある若者は部落を離れる」と不満を述べた。その結果、「残っているのは、老人と(自治体の)役所で働く人々だけです。」

V. 実証研究

同和事業は、若い部落民の、日本の一般社会への参加意欲を劇的に変えた。直接的には、部落民としての自意識を増大させた。すなわち、自分自身を部落民と自覚している場合に限るが、経済的恩恵、住宅の提供、優先雇用、そして税制上の優遇を享受することができた。間接的には、彼らが犯罪活動に特化する動機を高めた。すなわち、一般社会での合法的な職業と比較して犯罪的な職業への志向を高めた。これらの仮説をデータから確認できるかどうか検証する。

A.はじめに

B.予測

1.検証の中心

2002年の同和事業終了は次の2つの効果をもたらしたと仮定する。

効果1:部落近隣地域からの転出が増加した。同和事業による優遇が減り、犯罪組織に属することへの見返りが減ったため、最も才気に富んだ若い部落民は、違法な職業よりも合法的な職業をより選択するであろう。彼らは教育にもっと多額の投資をし、部落を離れるだろう。

この現象を測定するための重要な変数は、転出率である。これは代理変数ではない。転出率は直接着目する変数である。それは、2002年の同和事業終了が次の主要な質問に与える影響を測定する。すなわち、意欲的な若い部落民が、部落民という地位を放棄して日本の一般社会へと移住する動機付けと能力を獲得したか? である。

効果2:部落近隣地域の魅力が高まった。

第1に、一般民がかつての部落地域を回避した程度を測定する。犯罪組織が力を失い、解放同盟によって引き起こされた、行政の腐敗が終結したので、部落地域は、論理的には、誰にとってもますます魅力的な場所になっているはずである。一般民がこれらの地域を魅力的だと感じれば、不動産価格が値上がりするであろう。したがって、これらの価格を使用して、残留バイアスの傾向を測定する。

2.副次的効果

a. 組織犯罪の力は衰えた。同和対策がなくなったため、犯罪組織は若い部落民にとって魅力の少ない職業となった。犯罪組織は規模を縮小し、新しい構成員の採用を減らし、部落民からの採用の数も減った。セクションVI.Dでこの効果を改めて論ずる。

2つの結果に注意する必要がある。すなわち、第一に、暴力団の構成員を解放同盟の会員から引き離す必要がある。解放同盟は伝統的に、理想主義者と暴力団の両方から指導者を集めたことを思い出して欲しい。同和事業がなくなったので、暴力集団の構成員は解放同盟への関心を失い、相対的に理想主義者の影響力が増したはずである。

第二に、部落民に対する一般民の偏見は下がったと考えられる。部落と暴力団との結びつきが少なくなると、恐怖から部落民を避けていた日本人はもはや彼らを差別しなくなる。逆に、若い部落民は、部落を離れて一般社会に加わるのが容易になるはずである。

b. 教育への投資が増加した。転出が容易になり、暴力団が支払う報酬が低くなり、地方自治体の仕事が再び競争による雇用の対象となるため、若い部落民は教育により多くの投資をするようになる。時間が経つにつれて、さらに高レベルの転出を起こすだろう。

我々がこの影響を直接測定することはでき。教育レベルに関する自治体規模のデータは存在するが、それらのデータは私たちが知りたいことを測定するものではない。意欲的な部落民は、高校を卒業し、大学に入学し、日本の一般社会に加わると、部落を去っていく。必然的に、彼らの教育レベルは部落のどのデータにも表れなくなる。結局、彼らは去っていくのだから。

c. 部落民の収入が増えた。同じ理由で、我々は部落におけるの収入を測定できない。意欲的な部落民が他の場所で良い仕事を求めて去った場合、部落民の収入データには表れない。部落のデータは、もはや彼らの収入を反映していない。

C.部落の場所

1. 1936年の全国部落調査

我々の研究は、部落近隣地域を特定することに注力している。我々は、長く封印されていた1936年の全国部落調査を通じてそれらを特定する。政府は、関連部落民団体である中央融和事業協会を通じて全国部落調査を実施した。342ページの手書き文書には、各部落の場所、各部落の部落民世帯数、および各部落民の人口が記載されている。情報のほとんどは1935年のものである。

私たちはこのリストをたどり、1936年の場所を現在の地方自治体に変換した。ほとんどの場合、1936年当時の名称を保持しているのは大きな都市だけである。現在の1,742の自治体の大多数は、分割、統合、名称の変更、場合によってはそれらを何度も行っている。全国部落調査の各項目について、私たちは1936年の部落を現在の場所まで追跡した。

私たちは2015年後半に1936年の全国部落調査を取得した。鳥取ループというペンネームをで使っている宮部龍彦は、彼のインターネットサイトにその文書を一時的に投稿していた。宮部はフリーランスのライター兼出版社として働いているようで、数年間部落解放同盟に対して激しい反腐敗キャンペーンを行ってきた。彼は明らかに部落民であると自認しているが、2017年初頭現在、彼は部落解放同盟との危険な戦いに固着したままである。宮部が全国部落調査再版の計画を発表したとき、部落解放同盟は出版を禁止するよう訴えた。全国連のウェブサイトで、「鳥取ループの化けの皮をはぎ、徹底糾弾し、彼を社会から永久追放するまで戦う」という計画を宣言した<全国連(2016)。2016年4月18日、横浜地方裁判所は、印刷物の発行を禁止し、ウェブサイトの解体を命じた。宮部が全国部落調査を掲載しただけではどうなるかは定かではないが、部落解放同盟指導者140人の氏名、自宅住所、自宅電話番号、地域で最も一般的な部落民の苗字も記載していた。2016年後半までに、ウェブサイトが復活し、全国部落調査はインターネット上の他の場所で再び利用可能になった。しかし、訴訟はまだ進行中である。裁判所の命令を尊重し、学術的な読者にとってはほとんど価値がないため、ここでは1936年の部落の特定を省略する。概要は同和地区(2016)を参照のこと。被差別(2016)、角岡(2016:60-65)。>。

1936年の全国部落調査の一般的な信頼性を疑う理由はない。戦後部落解放同盟に発展した、松本(訳注:治一郎)の暴力的な水平社よりも中央融和事業協会が穏健であったことを考えると、解放同盟がそれを攻撃することを期待する向きもあったかもしれない。だが解放同盟はそうはしなかった。むしろ、少なくとも部落解放同盟公式出版物のひとつは、デボス&我妻(1967:117)と同様に、全国部落調査に書かれた実際の合計値に依拠している(野口他1997:13)。

確かに、全国部落調査には明らかな誤りがある。たとえば、我妻(1967:93)は青森の部落について言及しているが、全国部落調査にはその地域は含まれていない。1920年の全国部落所在地調(デボス&我妻 1967:116および中央融和 1936:336で再掲)の都道府県の分布も同様に、1936年の全国部落調査に記載されていない北東地域の部落を示している。

それにもかかわらず、1936年の全国部落調査は、いくつかの戦後の都道府県の同和地区実態調査と密接に関連している。戦時中および戦後初期の日本国内での大規模な人口移動にもかかわらず、部落の場所はほとんど変わっていない。部落解放同盟自身が大阪府(1958年)と長野県(1963年)の部落民人口調査を発表した。別の団体が和歌山(1952年)、さらに別の団体が鳥取県(1979年)の人口調査を公開した。1979年の鳥取県部落民人口(近代市町村ごと)と1936年の全国部落調査による部落民人口とのペアワイズ相関は0.696、1958年の大阪とは0.985、1963年の長野県(世帯)とは0.987、1952年の和歌山県とは0.978である<これらの戦後の本のいくつかは、図書館から広く入手できる。宮部もウェブサイトに掲載していた。2016年の宮部への裁判所命令を尊重し、本の名前は省略する。>。

表1のパネルAは、1936年の全国部落調査による部落民の都府県分布を示している。先に述べたように、中日本と北東部に部落民はほとんどいなかった。代わりに、ほとんどが関西地方(三重県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県)にあり、南西部のいくつかの県にも住んでいた。滋賀県を除けば、関西の関西地方の府県は北東部の23都道府県のどこよりも部落民が多かった。関西地方は部落解放同盟の集中地域である。福岡とともに、日本の組織犯罪の中心地である。

表1のパネルBは、1936年に部落民が最も多い都市(2015年の市の範囲による)を示している。これらの都市はいずれも関西地方の北東ではない。代わりに、それぞれが関西地方自体、またはそこより南西の地域にある。

2.部落解放同盟支部

より強固なチェック方法として、部落解放同盟支部のリストを使用する。このリストは、おそらく部落解放同盟に敵対する誰かによって投稿されたもので、インターネットから取得した。ここでも明らかに信頼性が問題となるが、(1)市町村の支部数と(2)1936年の部落民人口の相関係数は0.570であることに注意する必要がある<このサイトでは、部落解放同盟の名前に架空の変名が使用されている。2016年の宮部への裁判所命令を尊重し、サイトの表記を省略する。>。

D.変数

1.部落変数

部落近隣地域について、以下の変数を計算する。

●部落民:現在の市町村の領域内の、1980年の市町村人口10,000人あたりの1936年に住んでいた部落民の数。

●部落解放同盟支部:現在の市町村の領域内の、1980年の市町村の人口10,000人あたりの解放同盟支部の数。

要約統計を表4に示す。日本の市町村の約半数(812 / 1,742)に部落が含まれていることに注意する必要がある。部落を持つ約100の市町村(812-701)には、解放同盟支部がない。

2.パネル変数

我々のパネルデータは、1,742の日本の市町村すべてを網羅するさまざまな政府の情報源から得られたものである<これらすべての変数のデータを政府のウェブサイトからダウンロードした。 e-Stat>。日本には非法人地域が存在しない(訳注:アメリカには非法人地域という市町村が存在しない地域がある)ので、全国すべての地域を網羅している。これらのデータ源では東京都は都道府県の一つとして扱い、各区(区、市)を市町村として扱っている。他の大都市(横浜市、大阪市など)は単一の市町村として扱っている。過去数年間のデータをまとめる際に、政府は、現在の地方自治体を合併前の地理的範囲にまでさかのぼったと報告している。言い換えれば、特定の地域がある市町村から別の市町村に移動した場合、政府は現在の地理的境界線に従って、移動前数年間の関連する市町村の値を再計算したということであ。

以下を計算する。

a. 従属変数

  • 転出:人口10,000人当たりの、1996年から2010年まで各年(総務省によるさまざまな年)の、市町村を離れた日本人の数(転入の数を除く)。(a)

  • 不動産価格:1993年はじめから毎年入手可能(国土交通省による各年)な、調査対象の不動産の平均価格(単位は1,000円/1平方メートル)。

b. 制御変数

  • 所得:1985年から2010年まで各年(総務省による各年)の、前年度分の1人当たりの課税所得(個人のみ、単位は1000,000円)。(c)

  • 人口:人口を1,000で割った値。日本政府は5年ごとにのみ人口調査を行っているため、我々はその間の年(総務省によるそれぞれの年)を補完した。(b)

  • 密度:1981年から2010年まで各年(総務省によるさまざまな年)の、10ヘクタールあたりの人口を市町村の面積で割ったもの。(b)

  • 出生率:1980年から2010年まで各年(厚生労働省人口動態調査によるさまざまな年)の、人口10,000人あたりの出生数。

  • 死亡率:1980年から2010年まで各年(厚生労働省人口動態調査によるさまざまな年)、人口10,000人あたりの死亡数。

VI 結果

A.外への転出

1.差分の差分法

注記:係数と、それに続くロバスト標準誤差。n=24,760。回帰分析は最小二乗法であり、年固定効果と市町村ごとに分割された標準誤差を使用。***、**、*: 1、5、および10%レベルで統計的に有意。 出典:本文参照のこと。

同和対策事業が終了すると、かなりの数の部落民がその地区を離れ始めた。表5は、修正された差分の差分法を使用して、部落民の転出に対する同和事業終了の影響を研究している。部落民の増加が、2002年以降の人口移動の大きな変化と関連しているかどうかを調査する。従属変数として、各市町村からの転出率(一人当たり。転出の総数ではない)を使用する。すべての回帰分析には、年の固定効果が含まれる。1936年の市町村の部落民の数は1980年から2010年の間変化しないため、市町村の固定効果を使用しない(実際、数学的に使用できない)。いずれの場合も、回帰分析には最小二乗法を使った。

最も単純な計算(回帰(1))から始める。独立変数として、(1)1936年の市町村の部落民の数(一人当たり)、(2)2002年以降についてはダミー変数1、(3)1936年の部落民と2002年以降のダミーとの相互作用、(4)人口、(5)一人当たりの所得を使用する。後の回帰分析では、(6)人口密度(都市化の代用)、(7)出生率(年齢分布の代用)、および(8)死亡率(年齢分布の代用)を、追加する。すなわち、次の等式が成り立つと推定する。

転出 = a * 部落民 + b * 2002年以降 + c * 部落民 * 2002年以降 + 制御変数

これは古典的な離散群の差分の差分法回帰分析ではないが、部落民の多い市町村と部落民の少ない市町村が古典的な2つのグループを構成し、部落民の多い市町村が2002年の同和事業が終了したことによる要因であると想像できる。2002年以前の2つのグループの転出は、制御変数と部落民密度変数によって同様に影響を受けたと想定する。2002年の後の変数は、両方のグループに影響を与えた2002年に変化があり、交互作用項は、処置された(つまり、部落民の多い)グループに固有の変化を見出す。

重要なのは、交互作用項の係数が正で有意であるということである。同和事業は2002年に終了し、部落民が集中している市町村からの転出が最も増加した。一般的に、部落民が多い都市は他の都市よりも転出率が低かった(基本的な部落民変数の負の係数が示すように)。これは2002年以降も当てはまるが、部落民の多い市町村からの転出率は上昇し始めている。

回帰(2)は人口密度と出生率、死亡率を追加するが、基本的なポイントは変わらない。すなわち、2002年以降、人々が部落地域を離れる割合は、他の市町村を離れる割合よりも増加した。

いくつかの簡単な観察に注意する必要がある。裕福な家は貧しい家よりも移動性が高く、転出は所得と正の相関がある。若い家族は年配の家族よりも移動性が高く、転出は出生率と正の相関がある。また、都市部の家族は農村部よりも移動性が高く、転出は人口密度と正の相関がある。

係数の大きさは、部落民が2002年以降にかなりの数の部落を離れ始めたことを示唆している。部落変数は、1936年に部落に住んでいた部落民の数に基づいていることを思い出して欲しい。全国でその数は999,700人である。1975年には、110万人の部落民が今でも伝統的な地区に住んでいた(セクションII.Aを参照)。明らかに、1975年には1936年よりも約10%多くの部落民が伝統的な地域に住んでいた。

人口10,000人の町を想像してみよう。全国平均を追跡した場合、部落民変数は115で、年間の転出は432である(表4を参照)。表5の回帰(2)における部落民の係数が0.0403であるとすると、町に部落民がいなかった場合、転出は115 * 0.0403=4.63増加して436.63になる。したがって、部落民がいない10,000人の町では、転出率は0.0437であった。部落民変数が115の町には、1975年に実際に(115 * 1.1 =) 127人の部落民がいたことを考えると、一般民は9,873人住んでいた。もし彼らが0.0437の割合で転出したとしたら、一般民の転出はほぼ正確に431人に等しいと言える。127人の部落民のうち、毎年1人も去っていなかったであろう。

2002年以降、部落民は伝統的な部落地域をより多く離れ始めた。部落民 * 2002年以降 の交互作用項の係数は0.0127である(表5、回帰(2))。部落民変数が115の場合、転出は0.0127 * 115 = 1.46増加する。同和事業が終了する前は、毎年1人の部落民が転出した。2002年以降、部落民の転出は2倍以上の2.5人になった。

2.部落解放同盟支部

表5の回帰(3)は、回帰(2)と同じ仕様を使用しているが、部落民のコミュニティは部落解放同盟支部の数で識別されている。先に述べたように、1936年の人口と、戦後のいくつかの都府県の同和地区実態調査との間の相関は高い。それでも、1936年の全国部落調査が現代の部落民の位置をどれだけ正確に捉えているかを示す追加の検証として、1人あたりの部落解放同盟支部の数を示す。

その結果は変わらなかった。すなわち、同和対策特措法の終了に伴い、部落解放同盟支部の数が多い都市を離れる割合は、他の場所よりも増加した。

3.年-相互作用項

注記:係数と、続いてロバスト標準誤差。回帰分析は最小二乗法であり、年固定効果と市町村ごとに分割された標準誤差を使用。***、**、*: 1、5、および10%レベルで統計的に有意。 出典:本文参照のこと。

2002年以降、部落民のコミュニティからの転出が増加するペースを調査するために、表6で、我々が見積もった部落民密度をそれぞれの年と相互作用させる。回帰(1)で、1936年の部落民人口と各年を相互作用させ、回帰(3)で、部落解放同盟支部の数と相互作用させる。その結果は似ている。

図2. 部落民と年相互作用項(転出)の値

出典:表6

回帰(1)を検討してみよう。1936年の一人当たりの部落民の数の係数はここでも負である。すなわち部落民が多い市町村は一般的に他よりも低い転出率であった。しかし、2006年頃から、その差は消え始めている。部落地域と一般地区の転出の差は2008年まで拡大し続けている。それまでに、部落地域からの転出率の当初の差(0.0229 / 0.0364)のほぼ3分の2が消失した。図2は、これらの交互作用項の値をグラフ化したものである。

B.地域への影響

注記:すべての回帰には、人口、収入、人口密度、出生率、死亡率が含まれる。係数と、続いてロバスト標準誤差。回帰分析は最小二乗法であり、年固定効果と市町村ごとに分割されている標準誤差を使用。***、**、*: 1、5、および10%レベルで統計的に有意。 出典:本文参照のこと。

検証の追加確認として、地域レベルおよび市町村レベルの回帰である表7を参照しよう。表2Aに示すように、関西の都市、神戸市、大阪市、京都市では、1936年に最大の部落があった。他の大きな部落は、四国から瀬戸内海をまたいで、岡山県、広島県、そして西の福岡県に存在する。組織犯罪も主に関西と福岡県の都市現象である。東京にもギャングがいるが、暴力団の中心は関西と福岡県である(犯罪は、日本で数少ない東京を中心としない事象の1つである)。

我々の主張を思い出してほしい。すなわち、特措法の下での政府資金の大規模な流入は、犯罪組織に莫大な新しい収入源をもたらしたと我々は考える。犯罪活動から期待される収入の増加は、若い部落民を合法的な仕事から組織的に離脱させた。若い男性は、教育に投資して部落を離れるのではなく、学校をやめて暴力団に加わった。同和事業が2002年に終結したとき、非合法および合法的な活動に期待される見返りは、相対的に合法的な仕事へと取って代わった。これまで以上に、若い男性は教育に投資し、日本の一般社会で仕事を見つけて去っていった。実質上、彼らは部落民ではなくなった。

最初に表7のパネルAに移る。これらの回帰では、1980年の市町村の人口の中央値(29,200)でデータセットを分割する。列(1)では、表3回帰(2)変数の大都市での1人あたりの転出を回帰する。列(2)では、小規模な市町村についても同じことを行う。組織犯罪は主に都市現象であり、2002年以降の部落民転出の大幅な増加は大都市でのみ見られる。

表7のパネルBでは、さまざまな地理的地域で同じ回帰を推定している。日本の組織犯罪は関西地方を中心としており、関西(回帰(1))と四国(回帰(2))の両方で、2002年以降、部落からの転出が大幅に増加している。関東や北部の県では、部落はどんどん小さくなっている。これらの地域の結果は、有意ではないが質的に類似している。交互作用項の係数は関西や四国よりもさらに大きくなるが、標準誤差も大きくなる(回帰(5))。中国地方(主に広島と岡山)では犯罪組織の役割は小さく、相互作用項の係数は正ではない(回帰(4))。

九州の結果(回帰(3))は、石炭産業の衰退を反映している。20世紀前半、九州北部の福岡県は石炭産業の中心地だった。九州の部落民のほとんどは福岡に住んでいて、多くが炭鉱で働いていた。日本の石炭はもはや競争力がなく、炭鉱の町は環境浄化以外の仕事がほとんど残っていない。以前ギャング抗争に巻き込まれたと説明した町(訳注:大任町のこと)は、これらの衰退した炭鉱の町の1つである。人々は2002年よりずっと前にこれらのコミュニティを去っていた。福岡自体(表7、パネルC、回帰(5))、部落民係数は正の0.063であり、t-統計量は3.39である。福岡県の部落からの転出は、すでに非常に多かったという単純な理由で増加しなかった。

表7のパネルCでは、関西の4つの主要な都道府県の基本的な回帰も推定している。比較的田舎である和歌山県からの2002年より後の部落民の転出の増加は見られない。ただし、この地域の都心部である兵庫県、大阪府、京都府では一貫して、2002年以降、転出が増加した。福岡県と同様、これら関西3府県は大都市である。これらは日本最大級の部落のほとんどを含み、解放同盟の中核であり、いくつか主要な犯罪組織のの本拠地である。相互作用項の係数は、京都府の0.02から大阪府の0.05、兵庫県の0.06の範囲である。大阪府の係数は有意ではないが、兵庫県と京都府の係数は1%と5%で有意である。

C.不動産価格

注記: 係数と、それに続くロバスト標準誤差。n=19,951または19,952。回帰分析は最小二乗法であり、年固定効果と市町村ごとに分割されている標準誤差を使用。***、**、*: 1、5、および10%レベルで統計的に有意。 出典:本文参照のこと。

表8では、不動産価格について説明する。同和対策事業の終了に伴い、大規模部落を抱える都市の不動産価格が上昇したことは明らかである。回帰(1)および(2)では、表5の回帰(1)および(2)で使用されている独立変数に基づいて、市町村レベルの不動産価格を回帰分析する。当然のことながら、価格は裕福な都市、密集した都市、人口の多い地域で高くなっている。ただし、重要なのは、1936年の部落民人口と2002年以降の年との間の相互作用項が正であり、有意であるということである。すなわち、大規模部落近隣地域を抱える都市の価格は、2002年以降、他の都市の価格よりも上昇した。回帰(3)において、部落近隣地域を1936年の全国部落調査ではなく、解放同盟支部によって識別したが、結果は変わらない。

表6の回帰(2)および(4)では、回帰(1)および(3)の転出率に使用した特定の年相互作用条件で不動産価格を回帰分析している。同和対策事業は当初10年に制限されていた。それは一連の一時的な延長法を通じて継続されたが、有権者はその後の腐敗、恐喝、暴力団の権力に次第に反対するようになった。1996年、政府は2002年に同和事業を終了することを決議した。我々は不動産業者が2002年までの市場価格に期待を寄せると予想したが、それは結果が示している。

図3. 部落民と年相互作用項(不動産価格)の値

出典:表8

データは、同和事業がなくなることを知った後、部落の不動産価格が値上がりし始めたことを示していると解釈できる。むしろ、値上がりは1998年以前にすでに始まっている。我々の仮説では、同和事業の終わりが間近になるにつれ、買い手は、暴力団が権力を失い、恐喝が減少し、部落民が犯罪から離れて一般社会に向かうことを期待した。他のすべての条件が同じであれば、典型的な貧しい人は、部落の近隣に住むことを避けたいと思うかもしれない。しかし、特に市場均衡において、他のすべてが等しいということはない。部落地域は家賃が安い。多くは町の中心部に近く、通勤時間が比較的短い。部落民に対する一般的な敵意が薄れるにつれて、一般の日本人はかつての部落地域に移り、不動産の価格を底上げした。図3で、相互作用項の係数をグラフ化する。

注記:すべての回帰には、人口、収入、人口密度、出生率、死亡率が含まれる。係数と、続いてロバスト標準誤差。回帰分析は最小二乗法であり、年固定効果と市町村ごとに分割されている標準誤差を使用。***、**、*: 1、5、および10%レベルで統計的に有意。 出典:本文参照のこと。

表9では、不動産価格を従属変数として使用して、表7のロバスト性検査を複製して使用している。結果は、表7に類似した現象を示している。すなわち、正の価格効果を示している地域は、以前に最も過激な解放同盟支部と最大の犯罪を抱えていた地域であった。ただし、データベースを自治体の人口の中央値で分割する場合、相互作用項の係数は、大規模な市町村と小規模な市町村の両方にとって重要ではないことに注意する必要がある。2002年以降の部落からの移住は都市現象だった(表7、パネルA)。対照的に、2002年以降の部落の不動産価値の上昇は、農村部か都市部かという環境の違いにより制約されているようには見えない(表9、パネルA)。

表9のパネルBでは、パネルデータを地方ごとに分けている。部落民の転出の増加(表7、パネルB)と同様に、部落の不動産価格の上昇は関西地方と四国地方の関数である。解放同盟が闘争と暴力の評判を確立したのは関西地方であり、山口組が日本の他の地域に手を伸ばしたのも関西地方からであった。部落解放同盟と暴力団が同和事業の背後にある政府の行政を最もひどく腐敗させ、最も多くの若い部落民を採用したのは関西地方(と福岡県)だった。政府が同和事業を打ち切ったとき、部落の不動産価格が明らかに最も上昇したのは関西地方だった。

表9のパネルCでは、同和事業の終了が府県別の不動産価格に与える影響を追跡している。繰り返しになるが、回帰は、不動産価格へのプラス効果が中核的な都市の部落から生じたことを示している。残念ながら、データセットは大阪の不動産価格情報を反映していない。他の2つの関西府県、兵庫県(神戸市がある)と京都府では、2002年以降、部落の不動産価格が明確に上昇している。九州北部の福岡県(急進的暴力団工藤會の本拠地)でも、同様に2002年の同和事業終了後に部落の不動産価格が上昇している。

D.2002年以降の他の事業

日本が同和事業を解体するにつれ、政府は一部の隣保館・同和対策集会所を転用し、一部の同和公営住宅を一般開放した(角岡2012:244; 2016:27677)。都市は、優先雇用事業を停止または縮小した。転出と不動産価格の上昇に加えて、他の変化も続いた。

解放同盟は衰退した。分配するお金がないので、若い部落民を引き付けることはもうできない。会員数は、同和事業期間中の20万人以上から、5万人に減少した。同盟に残っている人は年をとっており、半数以上が60歳を超えている(小林2015:12;角岡2009:26; 2012:246を参照)。

犯罪組織は縮小した。特措法の有効期限が切れると、同和対策の公共事業からリベートを獲得できなくなった。警察の締め付けが厳しくなると、恐喝や賭博でさえ収益性が低下する。1991年には91,000人、2002年には85,300人の構成員・準構成員がいたのが、犯罪組織の総人員は2010年までに78,600人に減少した。そこから、2015年には46,900人に急減した(警察、平成 27 2015:2)。

犯罪組織はただ構成員を失っただけでなく、若い構成員を失った。表10は、会員数の減少が若い年齢層にどのように集中しているかを示している。一時は、若い部落民男性の10~25パーセントが暴力団に加わったが、現在、ほとんど誰も加わっていない(角岡 2009:113–14も参照)。暴力団の数はわずか47,000人で、そのうち30歳未満はわずか5%(2,300人)である。これらの男性の70%が部落民であったとしても、犯罪組織の若い部落民の数は1,600人にすぎない。

恐喝も減少した。法務省が2013年に部落民の恐喝(訳注:えせ同和行為のこと)に関する10回目の調査を委託するまでに、恐喝は急減した(人権2014)。1988年には、建設会社の16.4パーセント、銀行の14.5パーセント、大阪の会社の14.2パーセントを含む、17.5パーセントの会社が部落民の恐喝を受けたと報告した。2013年の4,398人の回答者のうち、恐喝を受けたと報告したのはわずか5.1%だった。恐喝を経験したのは、建設会社の9.7%、銀行の1%、大阪の会社の3.8%に過ぎなかった。1988年、恐喝を経験した大阪の会社は平均8.8回である。2013年には、1.9回しか受けなかった(人権 2014:付録表1、2、6)。

VII. 結論

2002年、日本政府は、被差別部落民対象を絞った助成の30年にわたる実験を終了した。その過程で、犯罪組織の最も収益性の高い収入源の1つを終了させたことになる。暴力団がこれらの資金をどのように流用したか、そしてこれらの資金が若い部落民男性に与えた影響について検証した。すなわち、合法および違法な活動への相対的な期待収益が入れ替わることにより、資金は犯罪組織での地位を選択した若い男性への恩恵となった。

部落民についての定量的研究は、次の単純な理由で難しい。部落民コミュニティの場所は厳重に守られた秘密である。私たちは1936年の全国部落調査を通じてこの問題を克服した。この全国部落調査査のコピーを偶然に取得したので、5,000余の伝統的な部落地域を特定できた。私たちは、各部落を、日本の社会統計で使用されている現代の市町村の領域までたどった。次に、さまざまな社会的および経済的変数を網羅する市町村レベルのパネルデータセットを構築した。

このデータセットを使用して、同和事業の終了により、才覚のある部落民が一般社会に溶け込み、他の日本人がより魅力的な住む場所としての部落を見出すことができるかどうかを検証した。我々は、それらの現象の証拠を見つけた。同和事業が終了すると、部落民はますます部落を離れ、日本の一般社会へ溶け込んだ。もちろん、この現象は、並行した政策の変化と結びついている。国会は1996年に、2002年に同和事業を集結することを決議し、1991年に暴力団に対する法的手段を強化し始め、2000年に摘発数を増やした。私たちは2つの原因は解明しない。どちらも犯罪的職業から合法職業への転換を増やし、2006年までに部落地域を擁する自治体からの転出が急増し始めた。

腐敗と恐喝の減少は、解放同盟と暴力団の衰退とともに、他の日本人に部落地域が住む場所としてより魅力的だと考えさせた。そして同和事業が終了すると、他の日本人が移住してきた。進歩的な部落民は立ち去り、日本の一般社会へと消え去った。代わって、一般の人々が部落へ移住してきて、部落の不動産価格を押し上げた。

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