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"治安優先" で動乱を専制で抑えるということ

中国の長い歴史の中で、指導者たちが常に学び実践してきたこと。それは、”治安” である。

どんな、徳治主義(真っ直ぐな心をもって相手に恩恵を与える「得させる」ことで自らも恩恵を得ることが出来る)を発揮しても、一夜にして崩壊するのが "動乱" である。それを、習得しているのでつねに "乱れの本を根絶やし" にする。

1989年6月4日(日曜日)。当初は、知識人や改革派の政治党員もデモの平和的解散を促したが、学生の強硬派が主権を握り、結局、武力で鎮圧する事態となった。

それ以降の流れは、改めて書くこともないのだろうが、"乱れの本の根絶やし" 作戦が功を奏し、経済発展の心地よさに酔う国民を育てたといってよいだろう。

その酔いの中で、世界でも有数の富裕層を生み出した。その富裕層の要求にこたえる官僚が跋扈し、汚職による地方政治・統治が当たり前になろうとした。

ここからは、私の解釈である。


権力闘争の最中で「汚職を活用しない手はない」と思った人間たちが、相手を窮地に追いやる「汚職摘発」運動を展開し始めた。当初は、何派にも分かれていたのが、運動が高まるにつれ、離合集散を繰り返し、2~3派程度にまとまった。

派を運営するのに "運動資金" が必要となり、富裕者と結託し敵対する派のせん滅に鎬を削る。負けた者たちが「汚職の実行犯」として血祭りにあげられていった。

最後に残ったのが、今日の主流派となっている。支配下に治まった振りをしている旧敵対勢力は、いつでも反撃ののろしを上げようとしているが、強力な監視の下、動けないのが現状とみる。

富裕層も主流派以外は淘汰され、主流派に貢いだ者たちも、不満を示せば "隠居" を申し渡される状態で、富裕層の中でも反撃を志す者たちは "資金不足" で力を蓄えられないのだろう。

斯様に "治安の乱れの本を根絶やし" にしてきた現在の権力者たち。

専制の強化に余念がなく、すべての責任を超越する存在を目指す。いわゆる "神格化" への道を辿ろうとするのだ。責任の追及が届かない ”守られる存在” になろうとする。


100周年が来るのだという。西側諸国、とくにアメリカ合衆国の祝辞を受けられるか。受けられなければ、その責任はだれにあるのか。

主流派は、こう思うのである。「治安なくしては、澄む思想も徳ある治世も存在しえない。14億人を食べさせ "動乱" を起こさせないわれらこそ、世界の安定に絶対的に必要な存在である。」と。

「六四天安門事件」まえの「四五天安門事件」は、主流派にしてみれば最強の教えであろう。国民に教え広げ恒久化しなければならない "現実" なのだ。主流派にとっては、西側から批判されようとも真理である。


アメリカ合衆国。前回の大統領選挙では、大統領候補の煽りを受けて支持者の一部が連邦議会議事堂へ乱入した事件が起きた。混乱の最中は、強硬な態度ほど支持を得る。そして、省みない行動を起こす。

治安の乱れはどこからくるのか、いち早く掌握して煙の上がる前に消化するしか手がない。火の手が上がり燃え広がれば、手のつけようがなくなる。監視の目を張り巡らせ、反抗の熱を瞬時に感じる鋭敏さが求められる。

どの国も、治安が最優先であるということだ。だから、西側諸国が「六四天安門事件」を悪しざまに批判したところで、二枚舌であることを披露しているようなものだ。国内の乱れを抑えようとすれば、専制に化けて強制を行うよりほかはない。


世界で難民を出さない、増やさない。これをやらなければ、そこかしこで紛争が起こる。どこかの国で動乱がおこれば、多数の難民が発生し玉突きで紛争が絶え間なく発生する。

主流派は「われらを失えば、必ずや動乱が起こる。その動乱は、われらを批判する者たちの国に多大な混乱をもたらすであろう。それを、彼ら自身が一番よくわかっている。」と胸を張って主張するだろう。

主流派からも西側諸国からも、双方、挑発はつづく。けれども決定的な対峙は避ける。挑発しても相手を崩さないバランスを保とうとする。それが、世界の今の政治バランスなのだ。


「六四天安門事件」で犠牲となった人々へ哀悼の意をささげる。その人々の名誉が回復する日は来る。皮肉にもそれは、自由と民主主義を掲げた政権が "治安維持" を果たしたときである。


梅雨の晴れ間の青さに、その澄んだ空気にあの時のことを思い出す。明日は、大雨が降るかもしれない。

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