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ぼくと福山シティFC。

サウナと浦和レッズ、そして福山シティFCを愛しています。藤田啓介と申します。
改めて僕の自己紹介と、福山シティFCに所属することになった経緯から現在までを綴りました。
縁もゆかりもない地で、2024年Jリーグ参入を目指し、日々奮闘しているフロントスタッフのストーリーです。

幼少期

1994年8月15日生まれ。埼玉県所沢市で生まれ、毛呂山町という超絶田舎で育つ。『けいすけ』という名前の由来を両親にちゃんと聞いたことはないが、サザンオールスターズの桑田佳祐から名付けられた。知らんけど。
この頃の記憶はあまりないが、5つ上の兄や親戚とよく遊んでいて、とてもやんちゃだったらしい。それと足が速いという理由でモテていた。
以上、幼少期。

サッカーを始めたきっかけ

父と兄は野球をやっていたが、僕はひねくれ者であるため、頑なに野球はやらなかった。
小学2年生のときに、日韓ワールドカップを見てから、少しずつサッカーに興味を持ちはじめた。はじめは近くの公園でキックベースをするくらいだったが、友人に誘われ小学3年生の時に地元の毛呂山サッカー少年団の試合を観に行った。今思うと衝撃的なのだが、試合中に2人の選手が砂遊びをしていた。しかも、ちょっとした遊びではない。本格的に座り込んでやっていたのだ。山作って棒を立てて、その棒を倒したら負けのやつ。
そんな少年団だったが、「なんて自由なんだ、楽しそう」と、入団を決めた。
以上、サッカーをはじめたきっかけ。

〜大学時代

サッカーをはじめてからすぐに夢中になり、トレセンにも選ばれた。ただ、試合中に砂遊びをしてしまう選手がいるくらいなので、めちゃくちゃ弱い。それでも楽しくてたまらなかった。僕はというと、1人でドリブルしてゴールまでいく。守備はしない。ボールを奪われる味方に呆れる。そんな超自己中プレーヤーだった。

その後中学のクラブチーム、坂戸ディプロマッツFCからオファーをもらった。家から近いということもあり、加入を決めた。
ここで本当に素晴らしい指導者に出会い、僕のサッカー人生は大きく変わったと今でも感謝している。
当時身長が低かったこともあり、苦しい時期も過ごしたが、3つのJユース、20を超える高校からオファーが届いた。

その中から、僕が選んだのは青森山田高校。Sランク特待生としてサッカー部に入部した。
【高校選手権に出て、プロになる】そう決意したが、地獄のような経験ばかりだった。
特待生のみ、入学式よりも早く入寮してAチームの練習に参加したが、中学時代とはレベルが違う。プレスやパスのスピードが段違いだった。パス練習では多少のミスでも、″やれよ!″と先輩から言われた。めちゃくちゃ恐い。萎縮してさらに悪いプレーが続く。″やれよ!″のオンパレード。やっと初日の練習が終わったと思えば、新1年生のみ走りのメニュー。練習後、約20人全員が寮の階段を登るので精一杯だった。
それでも1年時からAチームの遠征に帯同させてもらうこともあった。しかし、インターハイや選手権では試合に絡むことが出来ず…【高校選手権に出て、プロになる】この夢は儚く散りました。完全に努力不足でした。
少し前に戻りますが、「″やれよ!″ってなんやねん、やってるわい」って思っていました。あれ、やめましょ。萎縮するので。
あ、当時の先輩見てたらすみません。笑

大学は千葉県浦安市にある、明海大学に進学。青森山田で地獄の経験をした(人生の大きな財産になっています)ため、とにかく素走りのないチームに行きたかった。大学2年生からスタメンで試合に出場していたが、怪我でプレーできない時間も多く、荒れた時期もあった。また、大学生ならではの誘惑に負け、一時は退部危機に。掃除部も経験した。それでも当時JFLのクラブから声をかけていただいたが、悩んだ末にお断りをして選手を辞めることに決めた。そして、なんとなーくお金を稼げそうという理由で東京の一般企業に入社することに。
以上、〜大学時代。

一般企業入社

大学卒業後、東京の一般企業に入社。恐らく殆どの方が分かるところで働いていて、殆どの方が嫌いであろう訪問営業をしていた。
お金は稼げたが、始発〜終電なんてざらにあるような毎日。
サッカークラブのフロントスタッフとして働きたい気持ちはあったが、時間がなく行動に移すことはなかった。(言い訳です)
1年半くらい働いた2018年12月、重度のストレスを抱えていたようで、背中に大量の斑点ができた。プライベートの時間も少なく、妻(当時彼女)とも上手くいっていなかったため、「さすがにこのままじゃまずい、何か大きく変わらないといけない。そういえば俺、サッカークラブで働きたいんだった。」と思い、とりあえず情報収集を開始。Twitterであらゆるサッカーに携わる方々をフォローした。そこで出会ったのが、福山シティFC
以上、一般企業入社。

福山シティFCとの出会い

Twitterでサッカークラブに関する情報を探していたところ、福山シティFC(当時福山SCC)に出会う。樋口さん(副代表兼SD)の投稿を発見。野心的な目標に惹かれた。メインは選手募集だが、後にフロントスタッフとしても活動できるチャンスがあるといった内容。当時は千葉県船橋市に住んでいたが、直感でこのチャンスに賭けてみるしかないと思い、即DM。数日後のクリスマスに、佳大さん(代表兼GM)が東京に来るということで時間を作っていただいた。佳大さんにお会いする前日、まだ加入が決まっていないにも関わらず、広島行きますと、当時在籍していた会社へ辞表を出した。(前職の皆さんすみません)
その想いが佳大さんに伝わり、その場で加入させていただくことが決まった。今でも″あんなクレイジーなやつとの出会いは忘れん″とお褒め言葉をいただきます。笑
DMをしてから広島県に移り住むまでの期間、なんと1ヶ月。
以上、福山シティFCとの出会い。

現在

2019年2月広島市に移り住み、廿日市市にあるグラウンドで練習をしていた。今でこそクラブの認知度は少しずつ上がってきていることを実感しているが、当時公式戦の平均観客数は6人…
現在は当たり前のように、芝のグラウンドで練習、試合ができる環境だが、当時の公式戦は土のグラウンドが殆どで、公式戦を9人で戦ったことも。翌年に天皇杯6位という成績を収めることは誰も想像できなかったと思う。

2020年からは、僕の目標であったフロントスタッフに選手兼任で就任。ベンチャーフットボールクラブ3人目のフロントスタッフとしての人生が始まった。
クラブ名を変更し、福山市に拠点を移した1年目。クラブの認知度を上げるべく奮闘した。ポスターや幟の掲出のお願い、地域イベントへの参加、少年チーム訪問、メディアとの関係構築などに力を入れて活動。福山シティFCになり、最初の公式戦では雨の中326人もの方にご来場いただいた。あの光景を忘れることはありません。ここからさらに頑張っていこうという矢先に、新型コロナウイルスの猛威にやられた。リーグ昇格の消滅や、決まりかけていたユニフォームスポンサーの白紙などにより、クラブは一時解散危機に。クラウドファンディングを実施し、目標金額500万円をなんと3日間で達成。最終的に支援総額876万円、525人からのご支援により、クラブは存続することができた。事務所で佳大さん、樋口さん、小谷野監督、佐藤さん、キャプテンの憧と喜んだ瞬間も忘れられない瞬間のひとつ。その後、県リーグ所属クラブが天皇杯6位と躍進を遂げ、大きな注目を浴びた。

そして昨年、2021シーズンをもって現役を引退。
選手ラストイヤーに1年越しの中国リーグ昇格を決めることができて本当に良かった。

現在は、法人営業の責任者として、主にスポンサー獲得やホームタウン活動をさせていただいています。
近い未来の個人的な目標は、クラブ、地域の発展に大きく貢献し、法人営業部長に就任すること。

加入当初はサッカークラブで働きたいという想いや、輝かしい世界に戻るチャンスをくれた方々への恩返しを。という気持ちで活動していました。その中で、福山・備後地域に住む多くの方々から福山愛や、福山シティFCへの期待を感じました。
僕自身は、クラブの発展に大きく貢献する人材でありたいと強く思っています。
福山にはプロスポーツクラブがありません。僕は埼玉県出身で浦和レッズというアジアでもトップのクラブを見て過ごしてきました。福山シティFCが、地域のオンリーワンとなり、新たなシンボルとして誇り輝くクラブとなる日を目指して、藤田啓介の力をクラブに還元していきます。

すべての人に「生きる勇気」と「明日への活力」を。

ガンバレ、俺。

最後まで見ていただき、ありがとうございました。

#note
#人生
#福山シティFc




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