【深い社会】8 あなたの薔薇は何を意味しますか。
映画「薔薇の名前」の最後に、ある文章が現れます。
stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.
過去の薔薇は名前にすぎず、私たちは裸の名前を手にする
「薔薇」は何を意味するのか。
作品に出てくる助手アドゾの恋の相手である少女を指すのか。
舞台となる修道院か。それともキリスト教会を指すのか。
様々な解釈が生まれ、議論となりました。
「薔薇論争」です。
この論争を考えるうえで、さらに土台となる論争について知っておく必要があります。
キリスト教にとって最も大きな転換となったのがご存じ十字軍です。
イスラムによって支配されていたエルサレムを奪還するために、数度にわたって軍が派遣されました。
結局失敗に終わるのですが、十字軍が東西を行き来することで、様々な文化が生まれました。
遠隔地に向けて移動する以上、武器や食料などたくさんの物の移動が必要です。
出発地から目的地まで物を運ぶよりは、目的地の近くで入手した方が無駄がありません。
そこで、商人同士のネットワークが生まれ、金品と物を媒介する小切手が生まれました。
こうして国を超えた貨幣の流通が起きました。
さらに、物の移動により、莫大な利益をもつ商人が現れるようになります。
彼らは、芸術家のパトロンとなりルネサンスの土壌が形成されました。
このように、何らかの大きな変化が起きるときは、前提として、人、物、情報の過密化が必要です。
過密化したとき、きっかけが訪れて雪崩のように大きな変化が生まれます。
古代のギリシャの知識や、イスラムが継承発展させていた錬金術の知識も、
十字軍の移動によりヨーロッパにもたらされました。
すると、これまで強固だったキリスト教の世界観が揺れ始めます。
当たり前だと思われてきた知識が、古代ギリシャの知識と比較されるようになったためです。
はじめは異端の知識とされましたが、さらにイスラムの知識が入るようになり、さらに大きく揺れます。
キリスト教もイスラム教ももとは同じ根を持つ宗教です。
比較されるようになり、より強固な知識体系が必要とされたのです。
知識体系づくりに貢献したのが、トマス・アクィナスです。
トマスはアリストテレスの知識をキリスト教に取り入れようと考えました。
トマスが悩んだのが、アリストテレス時代から続くあの問題です。
一体「ある」は「ある」のか。
私は「ある」のか。物は「ある」のか。
世界は「ある」のか。
そして、神は「ある」のか。
トマスはこの問題を解決するために、アリストテレスを研究したのです。
1 「ある」の根源は元素である。
なんらかの元素の組み合わせで「ある」は生まれます。
元素や、その組み合わせを質料といいます。
2 性質を変化させることによって元素も変化する。
プラトンは元素に霊体(性質)がくっついて、「ある」が生まれるとしていました。
アリストテレスはこれを否定して、元素と性質はもともとくっついているものだとしました。この性質を「形相」と呼んでいます。
その根拠が錬金術です。性質を変化すると、元素の組み合わせも変化します。
3 性質は「ものの見方」、知性である。
あたたかい、冷たい、の性質は、ものの見方です。
乾いている、湿っているも、ものの見方です。
重い、軽いも、ものの見方です。
4 性質が「ある」のならば、その始まり、最初のきっかけがあるはず。
それが「神」である。
ものの根源は元素。
では、性質の根源は何でしょう。
性質「ものの見方」の根源は・・・・う~ん。たしかに。
このようにアリストテレスの知識を活用しながら、
「ある」を証明し、「神」を証明しようとしました。
トマスはその他、様々に生まれてきた「問い」に対して、
賛成意見、反対意見、トマスなりの答えを丁寧にまとめました。
その問いの数、なんと、2669!
こうして書かれたのが「神学大全」です。
聖書以外の方法で、キリスト教世界を再構築した百科事典といえるでしょう。
神学大全のようにアリストテレス哲学を取り入れ、発展したキリスト教哲学を「スコラ哲学」と言います。「スクール(学校)」の語源ですね。
さて、映画「薔薇の名前」の中でショーン・コネリー演じるのが修道士「ウィリアム」。
このウィリアムにもモデルがいます。
「オッカムのウィリアム」です。
オッカムのウィリアム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0
映画のウィリアムと同じく、フランチェスコ会の修道士でした。
トマス以上に合理的精神を持った人物でした。
ウィリアムの合理的考え方は「オッカムの剃刀」と呼ばれています。
オッカムのウィリアムも、アリストテレス研究者で、トマス・アクィネスの神学大全を尊重しつつも、「神」のとらえについてトマスを批判しました。
私たちは、一人ひとり形相「知性」を持っている。
一人ひとりがそれぞれの形相で「神」を認識する。
しかし、すべての人々の形相が違う中で、認識する「神」が果たして本当に一致するだろうか。
神の存在は否定できないまでも、人間は共通の普遍的な認識を持つことは不可能ではないか。
「オッカムのウィリアム」をモデルにしている薔薇の名前のウィリアムも
その合理的精神で、キリスト教会を批判する文言を口にします。
対して助手のアドソは、保守的な精神、トマスと同じ立場で、ウィリアムを観察します。
つまり、映画全体として、
保守的修道士「アドソ(トマス)」 VS 革新的修道士「ウィリアム」
で論争をしているのです。
トマスが主張した「ある」の証明を「実在論」
ウィリアムの主張した「ある」の限界を「唯名論」
といいます。
この、実在論と唯名論の論争、
「普遍(神・愛・善)はあるのか」
という問いが映画の本当の論争「普遍論争」です。
映画の原作者「ウンベルト・エーコ」は、文学者であると同時に有名な記号学者です。
実在論と唯名論をどう解決するか、というのが記号学の大きなテーマです。
すると、最後の映画の言葉にも、新たな解釈が生まれます。
stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.
以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする
私たちの愛は、中身のある愛と言えますか。
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